長兄・俊次の江戸進出と事業拡大が最初の転機に
高利にとって最初の転機となったのは長兄・俊次の江戸進出だった。幕藩体制の成立により、全国の大名が江戸に複数の屋敷を構え、本国と江戸を定期的に行き来するよう義務付けられたのだから、江戸が京都・大坂をも超える巨大市場となる可能性が高まった。
伊勢商人の江戸進出が相次いだなか、三井家は出遅れの感は否めなかったが、手遅れと言うほどではない。長兄・俊次がすでに江戸に地歩を築いていた先輩伊勢商人の店で研鑽を積み、江戸本町四丁目(現・中央区日本橋本町)に小間物店を開いたのは寛永4年(1627年)、俊次が20歳の時だった。
江戸本町は江戸入りした徳川家康が最初に地割を行なった町人地である。3代将軍・徳川家光(在職1623〜1651)の時代には呉服商や薬種問屋などの大店が並ぶ、江戸一番の商業地域と化していた。その中でも常盤橋から浅草橋に至る大通りは「本町通」と呼ばれ、そこに面して店を構えることは大きなステイタスとなっていた。
俊次が開いた小間物店は表通りには面しておらず、横丁か裏通りにあったと推測される。江戸では呉服の需要が高く、今後も需要が増え続けると見て取ると、俊次は呉服の販売にも手を広げる。本町一丁目(現・中央区日本橋本石町2・3丁目)と二丁目(現・中央区日本橋室町2・3丁目)にも店舗を構え、松坂から三弟の重俊、四弟の高利(当時14歳)らを呼び寄せ、実地教育の意味も兼ねて店の手伝いをさせた。
18歳で江戸の店を任された高利の巧みな「掛け払い金回収術」
松坂で母・殊宝のやり方を見て育っただけに、重俊と高利は江戸での実践をそつなくこなすどころではなかったようだ。発想といい、交渉術といい、長兄・俊次をはるかに上まわっていた。
当時、江戸近辺で呉服の製造を行なうところはなく、仕入れ先はほぼ京都西陣の一択だった。そのため江戸で商売をする呉服店はどこも京都にも店舗を構え、京都店こそが本店であるかのような様相を呈していた。俊次もそれに倣い、仕入れの強化を図るために自ら京都に常駐することを決め、江戸での商売は重俊に一任した。
寛永16年(1639年)、殊宝が老境に入り、付き切りの介護者が必要になると、重俊が故郷の松坂に戻り、江戸の店は高利に任されることとなった。高利が18歳の時だった。