痛みは「脳の経験」と「情動」で変わる
痛みは、情動体験に強く影響された「脳の問題」でもあります。私は交通事故の患者さんを診察する機会が多いのですが、興味深い現象によく遭遇します。同じ程度のケガであっても、加害者より被害者の方が痛みを強く訴え、かつ慢性化しやすいのです。
これは「脳の経験」や「心理体験」によって痛みの感じ方が変わるためです。好きな人からつねられても痛みは感じませんが、嫌いな人や苦手な人からつねられたら「ものすごく痛い」と感じることがあります。これは多くの方が経験的に理解できるはずですが、痛みの本体はその痛みを不快と感じる心理状況や、過去の記憶などに関与した脳の経験によって変化するということです。だからこそ慢性疼痛の治療は難しく、そこをどう改善していくかが大きな課題なのです。
ヨーロッパでは第二次世界大戦後すぐに「痛みセンター」が設立され、整形外科、麻酔科、精神科などがチームとなって、戦争神経症やPTSDなどで痛みを訴える退役軍人の治療を行なっていました。それに比べ、日本の取り組みはかなり遅れていました。愛知医科大学が日本で初めて学際的痛みセンターを開設したのは2002年。欧米から50年以上遅れてのスタートでした。
2019年には厚生労働省の研究班が「慢性疼痛診療ガイドライン」を作成し、痛みの定義を明確化しました。痛みとは、組織の損傷(tissue injury)に関連して起きる「不快な感覚・情動体験」というものです。「感覚・情動体験」とは、感覚体験(sensory experience)と情動体験(emotional experience)の両方を指します。つまり、「痛み刺激が加わったときの感覚(痛覚)」と「痛み」は違うということです。痛い感覚があっても、それが辛くなければ「痛み(苦痛)」としては認識されないこともあります。痛みはけっして単純な現象ではないのです。
したがって、「痛みを取るためにモルヒネを使えばいい」というような安易な考えは、本来の治療ではありません。もちろん痛みを減らす努力は最大限行ないますが、薬で一日中眠っているような状態になってしまっては、生活の質を改善するという治療の最終目標からは外れてしまいます。
慢性疼痛治療のゴールは生活の質の向上
慢性疼痛治療の第一目的は、痛みをゼロにすることではなく、患者さんが自分で「痛みの管理」をできるようにすることです。なぜ痛みが残っているのか、なぜひどく痛い時とそうでない時があるのか。痛みが強くなる前に何があったのか。そうしたことを患者さん本人が考え、激痛を回避する方法を学んでいくことが重要です。
これを実践してもらうには、医師と患者さんとの信頼関係が不可欠です。「このまま(受け身の姿勢)では絶対に治らないよ」と言えば厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、こうしたネガティブな事実を、「だからこそ、自分でコントロールできるようになろう」というポジティブなメッセージとして伝えられるか。そこに医師のコミュニケーション力が問われています。慢性疼痛治療のゴールは、痛みに支配されることなく、生活の質や日常生活での動作を可能な限り向上させることにあるのです。
「慢性疼痛治療の第一目的は、患者さんが自分で『痛みの管理』をできるようにすることです」と語る牛田医師
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【プロフィール】
牛田享宏(うしだ・たかひろ)/愛知医科大学医学部疼痛医学講座教授、愛知医科大学病院副院長。1991年高知医科大学医学部卒業後、米国テキサス大学医学部客員研究員、高知大学医学部附属病院整形外科講師などを経て、2007年愛知医科大学医学部学際的痛みセンター(現・疼痛医学講座)教授、2021年同大学病院副院長に就任。著書『いつまでも消えない「痛み」の正体』(青春出版社)、『「痛み」とは何か』(ハヤカワ新書)など。
取材・文/岩城レイ子
