謎の絵師・東洲斎写楽の傑作を生み出した
そう考えると、改めて蔦重の脇の甘さが残念でならないが、蔦重は転んでもただは起きない人物。巻き返しを図ろうと思案を重ね、最終的に生み出したのが、東洲斎写楽の役者絵、それも上半身だけの大首絵だった。
写楽の素性について『べらぼう』が採った説(*特定の個人ではなく、蔦重夫妻と喜多川歌麿および多くの無名の絵師たち「チーム写楽」の合作として描かれた)はさておき、蔦重は大きな失敗をきっかけに、役者という既存のジャンルで俄然巻き返しにでた。大首絵にも前例があるため、規制対象にされる心配もない。既存の役者絵との一番の違いは、ありのままの姿ではなく、劇中の役になりきった瞬間を極端なまでにデフォルメして描かせた点にある。その作風がいかにして誕生したかも『べらぼう』の大きな見どころとなった。
写楽の作品は商業的に大成功とまでは言えず、当時の評判は今一つだったとする説もあるが、写楽の作品が蔦重復活の烽火となったことに加え、西洋の絵画界に大きな影響を与えたこと、日本を代表する芸術作品と認められるようになったのは、動かしがたい事実だった。リスクマネジメントの面で成功続きの人生ではなかったかもしれないが、やはり、蔦重は異才の持ち主だったと言ってよいだろう。
*参考資料/佐藤至子『江戸の出版統制 弾圧に翻弄された戯作者たち』(吉川弘文館)、湯浅淑子『べらぼうコラム #39 処罰を恐れる京伝は蔦重に無理やり書かされた? 江戸の版元を自粛ムードにした寛政2年の出版統制令』(「ステラNet」2025年10月12日付)、小林明『寛政の改革と出版統制:蔦屋重三郎を追い詰めた松平定信という男』(「nippon.com」2025年9月3日付)、「きりゅう」こと川合章子『[べらぼう] 松平定信の出版統制と、それに対抗した蔦重の奇策とは?』(YouTube『かしまし歴史チャンネル』2025年10月配信)
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。近著に『呪術の世界史』(ワニブックス)などがある。日本史上の巨大プロジェクトの舞台裏を危機管理という視点で迫った最新刊『危機管理の日本史』(小学館新書)が好評発売中。
■前編記事:【『べらぼう』蔦屋重三郎とその時代】幕府の出版統制を“甘く見ていた”蔦重が検閲をくぐり抜けるために講じた「2つの対策」【危機管理の日本史】