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島崎晋「投資の日本史」

老中・田沼意次の「蝦夷地開発計画」に始まる「北海道開拓の歴史」 ロシアの脅威に対抗するため「幕府直轄地」となった経緯

18世紀前半に描かれた「蝦夷地図」。地名は現在と同じものが見られるが、実際の地形とかけ離れている。九州国立博物館所蔵。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

18世紀前半に描かれた「蝦夷地図」。地名は現在と同じものが見られるが、実際の地形とかけ離れている。九州国立博物館所蔵。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 かつて「蝦夷地」と呼ばれた北海道では、中世以降、和人とアイヌによる抗争がたびたび繰り返されたが、平時には交易も行なわれてきた。その後の徳川時代になると、南部を支配していた松前氏は勢力を北や東まで拡大。幕府による直轄地化などを経て、1869年、明治政府により蝦夷地は北海道と改称され、近代化の道を歩み始める。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第20回(前編)は、ロシアの脅威に晒された江戸時代後期の北海道を取り上げる。【前中後編の前編】

田沼意次も「蝦夷地開発計画」を持っていた

 北海道が舞台の娯楽作品は数多いが、近年ではアニメ、実写化でも大成功を収めた野田サトルの漫画『ゴールデンカムイ』が注目に値する。同作のヒットに伴い、アイヌや日露戦争、網走監獄など、北海道に関する様々なテーマへの関心も高まりを見せている。実は今年のNHK大河ドラマ『べらぼう』に登場する田沼意次(1719〜1788)も、江戸時代には蝦夷地と呼ばれた北海道に深い関心を寄せていた。

 10代将軍家治の時代に老中を務めた田沼意次は、株仲間(同業者組合)を積極的に公認して運上・冥加(営業税)を上納させたり、長崎・出島での貿易を活性化させるなど、幕府財政の収入増加策を実施したほか、各地で新田開発を行なうなど殖産興業に力を入れた。その一方で、田沼の治世下で横行した賄賂やコネ人事が幕府内からも大きな批判の的になるなど、当時から毀誉褒貶の激しい人物だったとして知られる。

 経済政策を担った勘定奉行・松本秀持の進言や仙台藩士・工藤平助からの建白書『赤蝦夷風説考』に心動かされ、蝦夷地の開発とロシアとの交易の利害、ロシアの南下への対応などを考慮する判断材料を集める意図から、田沼は北海道に本格的な調査団を派遣している(1785年)。田沼の失脚(1786年に老中罷免)により頓挫したとはいえ、北海道開拓に潜在的な可能性ありとの認識が幕閣の間で広く共有されただけでも大きな前進だった。

 田沼を敵視した幕臣たちですら北海道開拓の必要性と有用性は認めていた。田沼に代わって政権を握った松平定信が蝦夷地の管理につき、松前藩との連絡を密にした点などから考えると、田沼との相違は松前藩の尻を叩くか幕府の直轄とするかという開発の主体の問題と、可及的速やかになすべきか、焦らずにじっくり腰を据えてかかるかという開発スピードに関わる点だけだった。

 安永7年(1778年)には、ロシア船が根室に来航し通商を要求している。それ以外にもロシア船の目撃情報が急増するなど、ロシアの動きが慌ただしくなるに伴い、幕府は速やかな対応を迫られた。

次のページ:ロシアの脅威に備える国防の観点から重要性を増した「蝦夷地調査」

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