国の重要文化財に指定された「旧開拓使工業局庁舎」。明治10年に札幌市中心部に建設され、その後「北海道開拓の村」に移築された(北海道新聞社/時事通信フォト)
かつて「蝦夷地」と呼ばれた北海道は、1869年、明治政府が太政官直属の「開拓使」を設置したことで、本格的な近代化の道を歩み始める。アイヌの同化政策という負の側面がある一方で、明治政府による北海道開拓への投資が日本の歴史に果たした意義は大きい。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第20回(中編)は、明治政府が実施した北海道開拓の中身について取り上げる。【前中後編の中編。前編から読む】
ロシアの脅威に対抗するため「北海道の開発」が急務に
小康状態を保っているとはいえ、ロシアが潜在的な脅威であることは明治時代に入っても変わらなかった。イギリスやアメリカから日本に来るには大海を越えなければならないが、ロシアは東シベリアまで陸路で来られる。
ロシアのそれまでの世界戦略を顧みれば、18世紀末頃からクリミアを含めた、現在のウクライナへの南進や極東への進出が強化され、属国にするのではなく完全なる版図に組み込んでいた。新たな占領地に大量の移民を送り込んでくることが容易に想像された。
当時、北海道が標的にされる可能性は高く、ひとたび北海道がロシア領となれば、日本とロシアを分かつ海は津軽海峡となる。そうなれば東北地方はおろか、本州全体がいつ攻撃を受けてもおかしくない危険な状況に置かれる。明治政府として、そのような事態は何としても避けねばならなかった。
北海道の先住民であるアイヌだけでは絶対数が足りない。ロシアの南進を阻止するには、戦闘要員はもちろん、非常時に本州へ逃げることなく、北海道の大地に骨を埋める覚悟を持ち、軍に協力してくれる住民を飛躍的に増加させる必要があった。それには本州から移民を招き、土着化させることはもちろん、大量の新住民の生計が成り立つような産業を振興させる必要もあった。
徳川幕府も開拓を試みなかったわけではないが、水田を築き稲を収穫するという本州でのやり方をそのまま持ち込んだところ、想定外の気温の低さが災いして、ことごとく失敗に終わった。明治に入ってからは北海道開拓使(明治2年=1869年設置、同15年=1882年廃止)、根室県・札幌県・函館県と農務省北海道事業管理局の3県1局時代を経て、明治19年(1886年)からは北海道庁が開拓を主導することになったが、幕府の失敗に鑑み、北海道と自然環境が類似し、開拓についても経験豊富な北米の技術と文化に注目した。