「博物館網走監獄」に展示されている囚人の作業風景。明治時代、北海道の囚人には道路建設など過酷な労働が課され、多数が落命した(写真:イメージマート)
明治政府の北海道開拓は、1869年設置の「開拓使」がアメリカから招聘したホーレス・ケプロンが立てた方針に沿って進められた。その計画や内容は“北米流”に沿ってお雇い外国人が主導したが、実際の事業に動員されたのは日本各地から集められた多種多様な人々だった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第20回(後編)は、北海道開拓に従事した人々と、開拓の“遺産”について取り上げる。【前中後編の後編。前編から読む】
道路建設や炭鉱開発を支えた「囚人労働」
ケプロンの打ち立てた開拓方針に沿い、アメリカ製の洋式農具の導入も進められたが、1つ大きな問題が残った。人員の確保である。初期には失業した士族を対象とした屯田兵制度(明治7年=1874年制定、1904年廃止)が実施されたが、条件や訓練の厳しさから応募が少なかった。有志の呼びかけで成立した他県からの開拓団も小規模なものばかりで、流通路の不備という外的要因も重なり、ことごとく失敗に終わった。
近代史を専門とする故・牧原憲夫(元東京経済大学教員)の著作『民権と憲法 シリーズ日本近現代史(2)』(岩波新書)によれば、道路建設や炭鉱開発を焦眉の急と考える黒田清隆(開拓使長官)は屯田兵に代わる策として囚人労働を採用した。
士族の乱や自由民権運動の激化から本土では受刑者が急増し、毎年1000人以上の脱獄者も出ていたことから、黒田は北海道に大規模な監獄を建設するとともに、囚人労働制を採用することを思いついたという。未開の地であれば脱獄が困難であることに加え、過重労働に耐え切れず死亡すれば経費の節減にもなるから一石二鳥。北海道の幹線道路の建設や鉱山の開発は囚人の命を代価とした面が強かった。
国際社会の目もあるため、囚人労働は明治27年(1894年)に廃止されるが、その頃には全国民に門戸が開かれた移民制度が整備され、北海道に移民ブームが到来していた。北海道史を専門とする桑原真人(札幌大学名誉教授)と川上淳(札幌大学教授)の共著『増補版 北海道の歴史がわかる本』(亜璃西社)によれば、移民ブームを起こした要因は以下の9つの恩典にあった。