蔦重が出版した謎の絵師・東洲斎写楽の「役者大首絵」。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
江戸時代のヒットメーカー・蔦屋重三郎の生涯を描いた今年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』もついにフィナーレを迎えた。新刊『危機管理の日本史』が話題の歴史作家の島崎晋氏が、検閲強化を続ける幕府に抵抗を続けた蔦重の対策について、リスクマネジメントの視点から検証する。【前後編の後編。前編から読む】
蔦重が「異例の厳しさ」で処罰された理由
幕府による検閲強化に対し、自身の下請け業者を事前検閲の担当にしてクリアしたり、書名をカモフラージュして販売するなど、様々な対抗手段を講じてヒットを生んだ蔦屋重三郎。
けれども、大ヒットすれば、自ずとその中身が世間に流布し、町奉行の耳に届くのは不可避だった。町奉行が実物を手にして中身を確認すれば一目瞭然。禁制品を世に出したうえ町奉行を欺いたのだから二重の罪で、蔦重に何らかの処分が下されるのは避けられなかった。
著者である山東京伝には「手鎖」という鉄製の手錠姿での自宅謹慎50日、版元の蔦重には財産の半分(年収の半分とする説も)を没収する「身上半減」という、この手の犯罪では非常に重い実刑が言い渡されたが、2人とも確信犯だから同情の余地はない。
哀れだったのは吉兵衛と新右衛門の2人(*蔦重に行事改に指名された下請け業者)で、両名とも裏長屋住まいの下層大衆に分類されるから、蓄えなどあるはずのないその日暮らしの立場。そんな2人に下されたのは、日本橋から10里四方への立ち入りを禁じる「軽追放」という処罰。蔦重はさすがに申しわけなく思い、相応の金銭を渡したというが、それを使い切るまでに見知らぬ土地で新たな職業を見つけなくてはならないのだから、彼らこそ一番の被害者とも言えた。
蔦重の考えはたしかに甘すぎたが、その甘さを生んだ一因は従来の幕府の政策にもあった。幕府の出す法令は基本的には武士を対象とし、江戸などの大都市で起きる刑事事件は町奉行が担当。民事事件も町奉行の管轄だが、よほどの大事に至りでもしない限り、町年寄や大家など、地域の顔役が間に入ることで処理されてきた。幕府や町奉行が民事で町人を直接罰するなど非常に稀だったのである。
それにもかかわらず、「寛政の改革」を主導した時の老中・松平定信は異例の厳しさで対処した。ここからは出版統制の徹底を意識した見せしめの意図が見て取れる。見せしめにするからは名の知れた人物である必要があり、蔦重は前からマークしていた人物でもある。またとない適任者が事件を起こしたのだから、これを利用しない手はなかった。
