三菱自動車の加藤隆雄・社長(時事通信フォト)
昨年末から続く日産とホンダの経営統合協議。ここにきて注目されるのが、日産が筆頭株主となっている三菱自動車の動向だ。統合に加わり「3社連合」となる可能性も指摘されているが、統合会社の中に入ると、経営の自由度が奪われ、三菱グループとの連携にも支障が出るため、統合には入らないとの見方も根強い。そんな三菱自動車のこれまでの歩みについて、自動車業界に精通するジャーナリスト・井上久男氏がレポートする。【全3回の第2回。全文を読む】
“親”が変わった
歴史を振り返ると、三菱重工や三菱商事が連携しながら「弱小自動車」の存続を図ってきたことが分かる。
実は三菱が日本で初めて乗用車を量産したことはあまり知られていない。1917年、重工の前身である三菱造船が「三菱A型乗用車」の生産を開始。トヨタが同社初の乗用車「AA型」を発売する19年前のことだ。
しかし、当時、国産車は売れず、三菱造船は自動車生産を辞めて航空機に経営資源をシフトし、1928年の三菱航空機設立につながった。その航空機と造船が合併して1934年、三菱重工が誕生した。現在の三菱自動車は1970年、重工の自動車部門が独立して米クライスラーとの合弁で設立。歴代社長の大半は重工出身者で、重工が“親”だった。
転機が訪れたのは2000年、三菱自動車が独ダイムラー・クライスラーからの資本を受け入れた頃からだ。当時、交渉を巡って、「重工のドン」と言われた相川賢太郎相談役と商事の槇原稔会長が対立したと言われている。相川氏が外資との提携に反対で、槇原氏は推進した。
その後、三菱自動車は2回にわたってリコール隠しが発覚して経営破たん寸前に陥り、「御三家」が中心となって経営支援した。2005年に商事出身の益子修氏が社長に就いたことで、重工よりも商事の影響力が強まり始めた。
この益子氏が自動車の経営を再建させた。だが、2016年に再び品質不正の「燃費データ問題」が起こり、今度は日産の支援を仰いだ。当時、会長だった益子氏と日産副会長で日本人トップだった西川廣人氏が話し合い、日産から34%の資本を受け入れ、日産グループ入りが決まった。
2017年に西川氏が日産社長に就くと、益子氏との関係がさらに強まった。
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現在、マネーポストWEBでは、関連記事《【全文公開】日産&ホンダ統合を左右する「三菱自動車株」問題 日産の持つ27%の三菱株の行方は…ホンダが引き受ければ新たな「3社連合」の形へ》にて、井上久男氏によるレポートの全文を公開している。
【プロフィール】
井上久男(いのうえ・ひさお)/1964年生まれ。ジャーナリスト。大手電機メーカー勤務を経て、朝日新聞社に入社。経済部記者として自動車や電機産業を担当。2004年に独立、フリージャーナリストに。主な著書に『日産vs.ゴーン 支配と暗闘の20年』などがある。
※週刊ポスト2025年2月14・21日号