明治〜大正期の東京株式取引所立会の様子
いまの株式市場には個人から機関投資家まで、世界中から様々なプレイヤーが参加しているが、明治時代に設立されてから約150年の歴史を持つ日本の株式市場には、長く語り継がれる「相場師」が何人も存在する。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」、最終回となる第22回は、その黎明期に名を刻む「相場師」3人の足跡を振り返る。
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資本主義が世界規模で発達した近代以降の経済にとって株式取引は不可分の要素。日本でも明治11年(1878年)5月に東京証券取引所の前身にあたる東京株式取引所が、同年6月に大阪取引所の前身にあたる大阪株式取引所が設立されている。
当初は戸惑いや混乱があったと思われるかもしれないが、実のところ、日本の商人にとって株式取引は未知の領域というわけではなく、江戸時代以降、それに類した取引を経験していた。
大坂の堂島米会所で始められた帳合米商いがそれで、現在で言う先物取引にあたる。市場で現物の商品(米)をやりとりするのではなく、帳簿上の数字や証書だけで取引を進める。帳合米商いと株式取引は根本的な部分で非常に似通っていた(関連記事《江戸時代にもあった「米の転売ヤー」問題 大坂商人が生み出した先物取引「帳合米商い」は「不実の米商売」と非難されたが幕府が公認するに至った事情》で詳述)。
先物取引、株式取引の活発化とともに登場するのがいわゆる「相場師」だ。平凡社の『改訂新版 世界大百科事典』によれば、〈商品や有価証券(主として株式)を、実需や中長期の投資目的に基づく売買ではなく、売値、買値の価格差金を目的として、投機的に売買し、その差金で生計を立てることを職業とする者〉を相場師と言う。先物取引を株式取引の前身とするなら、日本には江戸時代から相場師が存在していたことになる。
丁稚奉公から始めて莫大な財を築いた「天下の糸平」
日本史上、相場師として最初に名を刻んだのは、天保5年(1834年)に信濃国伊那郡(現在の長野県駒ヶ根市)に生まれた田中平八(1834-1884年)と言われることが多い。郷土史家・小林郊人編著の『天下の糸平:糸平の祖先とその子孫』(信濃郷土出版社)や日本工業倶楽部編著の『日本の実業家-近代日本を創った経済人伝記目録』(日外アソシエーツ)によれば、田中平八は「天下の糸平」の異名を取ったが、その名称は生糸の取引で実業家としての道を歩み始めたことに加え、慶応元年(1865年)、横浜に開業した両替商に「糸屋」の屋号を冠したことに由来する。