台湾総督府民生長官を務めた後藤新平(右)は第4代台湾総督・児玉源太郎(左)の元で手腕を発揮した(culture-images/時事通信フォト、時事通信フォト)
近代化の道を歩み始めた明治期の日本は、欧米列強に対抗するために自ら植民地を持つ政策を実行した。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第21回(後編)は、第4代台湾総督・児玉源太郎のもとで台湾統治の舵取りを担った後藤新平の業績を振り返る。後藤らが採用した「アメとムチ」を使い分ける政策は、台湾の安定化を図るリスクマネジメントとして見事に機能した。【前後編の後編。前編から読む】
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目次
後藤新平は就任前から「台湾の自治」を重んじる意見書を出していた
後藤新平(1857~1929年)が台湾総督府の民政局長(のち民政長官)に就任したのは明治31年(1898年)3月のこと。
抜擢の背景には、同時期に着任した第4代台湾総督・児玉源太郎(1852~1906年)だけでなく、同年1月に第三次内閣を組織したばかりの伊藤博文や陸相の桂太郎からの強い推薦もあったようだ。政治史を専門とする北岡伸一(東京大学教授)は著書『後藤新平 外交とヴィジョン』(中公新書)の中で、〈後藤の起用は児玉総督の決定の前から内定していたようである〉としている。
後藤も裏で進行中の人事を知ってか知らずか、第三次伊藤内閣の成立と前後して、「台湾統治救急案」と題し、〈従来同島に存在せし所の自治行政の慣習を恢復するが如きは、蓋し其急務中の急務なるものならん〉で始まる意見書を上申。北岡前掲書は後藤の意見書についてこう意訳する。
〈台湾は「化外の民」として清国政府から放任されていたが、むしろそのゆえに、かえって自治は非常に発達を遂げている。今日の近代的な制度とは異なるけれども、警察、裁判、税金などについて、確固たる制度が定着している。この「自治制の慣習」こそ、台湾における「一種の民法」である〉
後藤は従来の一見文明的な態度を一挙に導入しようとした台湾総督府の取り組みを完全に否定し、〈今後の方針は、旧慣を復活させ、総督府は監督者の立場に立ち、弊害がある場合にのみ徐々にこれを改良していくこととすべきである〉〈そうすれば行政も簡単になり、効果もはるかに挙がる〉と力説していた。