大半の投資家がますます及び腰になり、ついには鐘紡の大株主である三井家が鐘紡の全株を手放す事態が生じた。日露戦争が勝利に終われば、ロシア軍が実効支配していた満州の関東州が日本軍の手中に帰し、そこの住民の衣服をすべて日本製に変えることも可能だが、敗北で終わればすべてが水泡に帰す。そのため三井家は暴落で大損をするのを避けようと、思い切った選択をしたのである。
当時の鐘紡の支配人は在日華僑の大物、呉錦堂に新たな筆頭株主となるよう依頼。しかし、どこからかその情報を入手した久五郎は日本海軍の勝利に賭け、安田善次郎の安田銀行からの援助も取り付け、鐘紡の株をとことん買い占めた。呉錦堂も負けてはいかったが、ついには資金が尽きて買い増しを断念。筆頭株主の座は久五郎の手中に帰した。
運命の日本海海戦は日本海軍の圧勝で終わり、日露戦争自体も日本の勝利で講和を迎えた。そもそも開戦直後の短期間だけで、株の売買などにより300万〜500万円、現在の貨幣価値にして数十億円相当の巨利を得たという。巷ではどこへ行っても彼の名が話題に上らないことはなく、「日本の当たり屋」ともてはやされていた。
「調査の野村」の礎を築いた「二代目野村徳七」の先見性
しかし、どんな戦争景気にも必ず戦後不況が伴うのが世のならい。久五郎は売り時を見誤り、全財産を失うこととなった。それとは対照的に、明治40年(1907年)の市場暴落を見越して早めの売りに走り、相場師として面目躍如たる姿を見せたのが、野村証券の創業者にあたる二代目野村徳七(1878〜1945年)だ。胃癌のため再起不能となり、隠居を決めた初代野村徳七から家督を相続したばかりでの英断だった。
当時の証券業者は、世間的にはまだ博打打ちと同列に見られ、蔑みの意味を込めて、株屋や相場師と呼ばれていた。しかし二代目徳七の英断は勝負師としての勘に頼ったものではなく、綿密な調査結果に裏打ちされていた。
欧米に外遊し、最先端の証券業を学んだ二代目徳七はそこらのにわか金融業者とは明らかに一線を画す存在だった。野村グループの公式サイトにある〈「創業者」野村徳七〉のページには次のように記されている。
〈明治39年には当時大阪毎日経済部記者であった橋本喜作を入社させた。/この年に調査部を設立し、その責任者に橋本を登用し、他に先駆けて独自の調査活動を開始した。このとき、『大阪野村商報』を発刊して一般顧客に配布した。前日の市況、特殊株の内容分析、経済時事問題などを載せたその斬新な内容は、当時他に例を見ない顧客サービスで、読者の間に大きな反響を呼んだ。後年大きく発展を遂げる「調査の野村」は、実に、この年に発祥したのである〉(第7節「調査の野村」の発祥より)