秀吉「10代の出奔」は一家の危機管理策だった?
曖昧模糊と言えば、兄弟の出自からしてそうである。この点についてはドラマの時代考証を担当する駿河台大教授・黒田基樹氏や同じく複数の大学で非常勤講師を務める柴裕之氏が複数の書籍において検討を重ねている。それらを総合すると、兄弟の生まれた家は武家ではないが、地域の殿様から動員をかけられたら、成人男性1人の供出義務を課せられるレベルの農家だった。
そんな身でありながら、ドラマの第1話では、秀長が争いごとの間に入って見事にまとめる場面、せっせと蓄財に励んでいる様子などがさりげなく描かれている。この2点が重大な伏線であることは、遠からず全視聴者の知るところとなろう。
劇中では、秀吉は十代半ばにして行方知れずとなるが、後年の回想(のちに秀吉が小田原城主の北条氏直に宣戦布告した書状や毛利家の外交僧・安国寺恵瓊が記した書状、朝鮮、スペインの古文書など)によれば、さまざまな職業を転々としたとのこと。おそらく当初から大志を抱いていたわけではなく、彼なりに考えた末の、一家共倒れを回避する策だったのではあるまいか。つまり、これこそ豊臣兄弟が最初に選択した危機管理策とも言えるのである。
そもそも富農であれば長男が出稼ぎに出る必要もないが、近年の研究成果が反映されたであろう劇中の兄弟の家は、兄が欠けても労働力が足りる程度の広さと想像できる。そこからの収穫だけでは生計が成り立たない。あるいは、実の父が亡くなり家長不在のため、秀吉・秀長兄弟が成人するまでという条件で、田畑の大半が他者の手中にあったとも解釈できるかもしれない。
このままでは一家共倒れになりかねない。そのため、秀吉はこれといった当てもないまま、口減らしと自活の両方を目指し、出稼ぎに出る選択をした。兄弟の物語の最初期、このリスクヘッジが成功したことは、のちに歴史が示す通りである。
巡り巡って、秀吉が織田信長の正式な家臣となった時期も、秀長が秀吉と合流した時期も史実上ははっきりしない。現存する史料で確認できる合流時期は信長が浅井長政と戦っている最中(1570年以降)だが、劇中では兄弟の合流をそれよりずっと早く、桶狭間の戦い(1560年)より前に持ってきている。