後発組だからこそ、他店のやり方を踏襲するだけでは生き残れない。改善の余地がある部分には手をつけるべきで、高利がまず目をつけたのは「掛け払い金の確実な回収」だった。呉服に限らず、身分の高い武家や富裕層相手の商売では6月と12月の二節季払いか、12月だけの極月払いによる掛け売りが慣例化していた。
高額な商品が売れたのはよいが、代金を取りはぐれてはお話にならない。何かと理由をつけて支払いを渋る客が多いなか、高利はできる限り自ら足を運んでは、相手の性格に合わせた手を替え品を替えての巧みな交渉により、満額を回収して帰るのを常とした。これは長兄・俊次やすぐ上の兄・重俊にはできない芸当だった。
それに加え、高利は奥羽筋、すなわち東北地方に商品を売り歩く商人に対し、他店より安く品物を卸すことで、リピーターを増やすことを心掛けた(諸国商人売=しょこくあきんどうり)。1件あたりは薄利になってしまうが、塵も積もれば山となる。
翌年もその次の年も三井家から仕入れてくれるリピーターが増えれば、不良在庫を抱えることも減り、店頭に並べる商品の回転率を上げることができる。中長期的な立場から見れば、賢明なやり方だった。母の背や兄たちのやり方、零細な小売業者なりの商法を比較検討しながら、高利なりに思考を巡らし、このような方途に思い至ったのだろう。
長兄の死を機に江戸・京都に高利独自の店を開設
高利が敏腕を振るった10年で江戸店の資産は10倍に増加。京都の長兄・俊次はそんな高利を頼もしく思いながら、一抹の不安を抱えていた。半分は嫉妬であったかもしれないが、残り半分は間違いなく、高利が暴走して呉服屋仲間から反発を買うのではないかとの不安からだったろう。彼らを敵にまわせば江戸から閉め出され、今まで築いてきたすべてが水の泡と化す恐れがあったからだった。
最悪の事態は何としてでも回避しなければならない。俊次は三井越後屋のリスクマネジメントとして、慶安2年(1649年)に重俊が36歳の若さで病に倒れた機を捉え、高利に対して「松坂へ帰り、老母の介護に専念するよう」命じた。高利が28歳の時である。