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島崎晋「投資の日本史」

「中国革命の父」孫文、「インド独立運動家」ボースを相次ぎ支援した頭山満 そこで得た“大きな信頼”は歴史を変える可能性すらあった【革命への投資】

 昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件と同年8月13日に始まる第2次上海事変を発端とし、日中両国は全面戦争に突入。中国側の国民政府は南京から武漢、重慶と内陸部に所在を移しながら抵抗を続け、日本軍の支配は点と線に留まるなど、当初の予想に反して戦況は泥沼と化した。

 このままでは英米との開戦も不可避となりかねない状況下、2正面作戦を避けたい日本側は複数のラインを通じた和平工作を模索し、頭山満を介する案も考慮されていた。近衛文麿首相は広田弘毅外相を通じ、頭山を内閣参議(総理の相談役)として特派する計画も進め、頭山から内諾を得ていたが、頭山を「市井の無頼漢に毛が生えたもの」と見下す湯浅倉平内相の強硬な反対に遭い、頓挫していた。政府内での頭山に対する評価は両極端に割れていたのである。

 昭和15年(1940年)9月、再び頭山を派遣する案が持ち上がる。発案者は元陸軍砲兵大佐の橋本欣五郎で、橋本が持ちかけた相手は皇族軍人の東久邇宮稔彦だった。東久邇宮は人伝に、「頭山となら会ってもよい」という蒋介石の意向を聞いていたため、大いに乗り気になった。官僚や軍人、外交など公職にある人間では歯牙にもかけられないが、頭山であれば蒋介石とその周囲にも受け入れられる。対内的にも特使が頭山であれば、好戦的な右翼分子や軍内タカ派の反発も抑えることができると考えられたからだ。

 とはいえ、軍部に内緒で事を進めるわけにはいかず、東条英機陸相に話を持ち掛けたところ、「その時期ではない。そんなことはやめてほしい」と返答されたため、頭山の派遣は沙汰やみとなった。

 それでも東久邇宮はあきらめきれず、東条内閣成立後にも再び同案について打診するが、東条が首を縦に振らなかったため、実現できなかった。頭山の派遣が実現され、和平交渉も上手く運べば、歴史が大きく変わっていた可能性があるだけに、残念なことである。一番悔しい思いをしたのは、人生の最後を飾るに相応しい晴れの舞台を逃がした頭山自身だったろう。

■前編記事:頭山満と玄洋社が「欧米列強に虐げられるアジアの解放」を唱え亡命革命家を支援した理由 李氏朝鮮の金玉均との会談が転機に【革命への投資】

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。

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