実業家でもある糸平が相場師として仕手戦に本格参入するのは明治5年(1872年)に設立された横浜金穀相場会所の頭取となってからだ。幕末からの動乱期、市場が乱高下する中で確実な実績を重ねたその道の先達に教えを請いながら実践を通じて技量を磨いた。
明治11年(1878年)には、糸平が両替商仲間と明治元年(1868年)に設立した横浜の洋銀取引所が香港上海銀行に乗っとられるのを防ぐため、渋沢栄一に協力して東京株式取引所の設立に参与し、その大株主となった。さらに同16年(1883年)には東京米商会所の初代頭取に就任。数々の仕手に勝利して、東京の一等地に豪邸を構え、莫大な財を築き上げた。12歳で飯田城下の魚店に丁稚奉公に出されたことを思えば、すさまじい成り上がりと言えるだろう。
日露戦争下の株価乱高下でも「買い」一点を貫いた鈴木久五郎
ただし、田中平八は兼業色が濃く、相場師と呼ぶことに躊躇いを覚える人も多い。それに対し、日露戦争(1904〜1905年)前後に名をなした鈴木久五郎(1877-1943年)であれば、大物相場師と呼ぶことに異を唱える声はまずない。
久五郎は現在の埼玉県春日部市の出身。情報サイト『カスカベのニュース』〈【春日部市史】成金の代名詞「鈴木久五郎」〉(2020年4月21日付)によれば、日本・ロシア間の緊張が高まり、いつ開戦となってもおかしくない状況が生じたのは、久五郎が兄・兵衛門と設立した鈴木銀行で支店長を勤めていた時だった。
開戦となれば、軍艦の燃料である石炭を扱う会社の株価はもちろん、その他の軍需物資を扱う会社の株価も高騰するのは必定。ただし、戦争が敗北に終われば、その株式がただの紙きれと化す恐れもあった。
買うべきか、なおしばらく様子見に徹するべきか。大半の投資家が逡巡して後者を選択するなか、久五郎は開戦前も開戦後も、鈴木銀行の貯えと自身の預金を元手に買い一点張りの姿勢を貫いた。開戦後、新たな戦況が届けられるたび、株式相場が乱高下を繰り返しても、その姿勢は変わらなかった。
明治38年(1905年)になると、地上戦における日本軍の有利が伝えられるようになるが、ロシアが虎の子のバルチック艦隊を呼び寄せ中との情報が広まると、日本全体に暗雲が漂い出した。日本海軍に勝ち目は薄く、これを境に形勢がひっくり返れば、これまで値上がりしたすべての株価が暴落を避けられない。