ヘム氏が「ストックの世界で生きるべき」と力説するワケとは
人生100年時代、仕事やお金への不安は尽きない。そうしたなかで資産4億円超を築いた投資家兼会社経営者のヘム氏は、「事業も株式投資もストック型で一度仕組みを作れば私にお金を運び続けてくれます」という。
30歳で起業し、株式投資でも成功を収めたヘム氏は、「ストックの世界で生きること」の大切さを実感したというが、どういうことか? ヘム氏の著書『「増配」株投資 年1,075万円もらう資産3.7億円の投資家が教える!』(KADOKAWA)より一部抜粋・再構成して、ヘム氏が考えるお金で成功するための考え方を紹介する。
商社マン時代に理不尽に感じていたこと
・お金持ちになりたければ
・お金持ちで居続けたければ
・自由が欲しいのなら
「ストックの世界で生きることを意識しよう!!」というお話をさせていただきます。
私は23~30歳の7年間、いわゆる5大商社の1社で営業をしていました。バブル崩壊後で商社不要論が叫ばれた時代でもありました。商社絶頂期の今では信じられませんね。
当時の総合商社は新人を育てる余裕がなくOJT(on the job training)という名の新人を前線に放り出すだけの教育体制を敷いていました。
当然ミスの連発、毎日上司にも顧客にもボコボコにされていました。平日は毎日終電、土日もどちらかは丸一日出社です。よく「サザエさん症候群」と言って、日曜の夕方になると憂鬱になるという言葉がありましたが、私の場合は「アッコにおまかせ!」(お昼の番組)の時点でもう憂鬱でした。
今の時代ならコンプラ的に完全にアウトというようなことも多々あって、当時、「北朝鮮が発射したテポドンが日本海に落下」というニュースが出たのですが、あまりに仕事がつらくて何かの間違いでミサイルが会社に落ちないかなと思ったことを覚えています。本気でそんなことを考えていたわけではないでしょうが、相当メンタル的にきつかったことは確かです。
それでも、振り返ると楽しかった思い出の方が多いのですよ。恵まれていたことも多々ありました。上司や先輩は仕事では泣きたくなるほど厳しかったですが、プライベートでは尊敬できる所も多く、親分肌で可愛がってくれました。また、残業代はおおむねつけることができたのもラッキーでした。毎月の残業は100~120時間くらいで1年目から給与は額面で40万円以上あったと思います。残業がそれくらいで済んでいるのは、週に2回ほどは接待か先輩との飲み会が入っていたからです。接待に残業はつけないのが慣習でした。
私が新人で配属になった課は電子材料を扱う部隊でITバブル前夜ということもあり伸び盛りでした。入社当時の営業員は課長を合わせて7人でしたが、あれよあれよと増えていき7年後の退社時には営業員は40人を超え「課」から「部」に昇格していました。
組織というのは面白いですよね。伸び盛りであったことから課員はどんどん増えていったのですが、増員としてほかの部門からくる営業員(大体は先輩でした)はあまり出来の良くない方ばかりなのです。なるほど、自分が課長や部長の立場なら優秀な部下は手放しませんよね。当時はどうしてこんな感じの方ばかりくるのだろうと思っていたのですが、今となってはよくわかります。
入社数年後には、入社当時の課長が部長になり、同僚だった先輩は課長や海外店の実務部隊のトップになりました。夜中まで一緒に飲んだり、麻雀をしたり、ゴルフに行ったりして騒いでいた先輩がキーパーソンになっていくのですから仕事はやりやすかったです。
私が入社した総合商社の1997年当時の一人当たりの売上総利益(売総)のノルマは8000万円でした。伸び盛りの部門であったこともあり退社数年前の私の売総は2.5億円程度になっていました。
私が商社マン時代最も理不尽に感じていたことは、成績が毎年リセットされることです。当初8000万円だった売総を年々増やしていったのに、毎年の評価は予算比(≒ほぼ前年比)で行われます。
退社の数年前にITバブル崩壊のあおりで2.5億円の売総が1.5億円ほどに落ち込み随分低い評価をつけられました。元々8000万円だった利益が1.5億円になったのになぜ平均点以下の評価をつけられなければいけないのだと釈然としない思いでした。