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ビジネス

USスチール買収の日本製鉄・橋本英二会長の高校時代 秀才と評判だった“人吉の曹操”がアメリカに夢を抱き、鉄鋼業界に飛び込むまで

人吉高校2年生の橋本英二氏を写した1枚

人吉高校2年生の橋本英二氏を写した1枚

 日本製鉄によるUSスチールの買収がようやく決着した。バイデン、トランプと2代続けて大統領の反対を受けながらも、巨額の投資計画を示して約1年半に及ぶ買収劇を貫徹させた日鉄の橋本英二・会長兼CEO(69)。“鉄の交渉人”と呼ばれる男は、なぜ完全買収の意思を貫けたのか。昨年12月に橋本氏への独占インタビューを行なったノンフィクション作家・広野真嗣氏が、その“原点”にまで迫る。【全3回の第2回】

 * * *
 米国が上り坂で、財政赤字も始まったばかりだった55年前、橋本はまだ中学2年生だった。人吉の高校がある町まで、今なら熊本市から高速を飛ばせば1時間あまり。だがその開通前は、JR肥薩線で海側の八代市から、トンネルを23個も通らなければたどり着けない不便な町だった。しかも橋本の中学は、さらに郡部。家庭は貧しく、小学校まで橋本は靴も履いたことがなかった。生まれを呪い、「早くここを出たい」と念じた。

 ただ、橋本は、中学で“ビンタ(頭)がよか”と評判になる秀才で、とくに英語に熱が入った。教師の一言に、ヒントがあったと橋本は話した。

「これから英語が世界の公用語のようなものになると言われた。元はイギリス、今はアメリカという圧倒的に力の強い国の言葉をみんなが勉強するのは当然だろう、と」

 英語ができれば、アメリカとさえ渡り合える。中学では、勉強で張り合うことにもなる親友、渋谷浩一と知り合った。橋本と違い、父親は郷土史家、母親は音楽教諭という恵まれた境遇だ。橋本は渋谷を「いい意味の、育ちのいい男」と評した。

 渋谷の4つ下の妹・あい子は兄の中学入学直後のある日、坂を自転車で1人漕ぎ上って自宅を突然訪問してきた丸坊主の橋本を記憶している。渋谷の母・郁子が「どなた?」と尋ねると、少年は「ここが渋谷君の家ですか」と聞き返し、「最初のテストで僕が2番で渋谷浩一君が1番だった。そいつの家を見にきました」と言い、負けず嫌いを漂わせていた。

 2人は高校も一緒。担任の西嶌一臣(83)は、争いを好まず穏やかな渋谷を三国志の劉備玄徳に、野心家の橋本を曹操孟徳になぞらえて記憶した。

「橋本は“経済界を牛耳っているのは一橋大卒だ。俺はそこに行く”と高校生ながらに言いよった。しゃにむに勉強しとったけど、落ちてね」

「橋本が家を飛び出した」と聞いて探しに出た西嶌は、人吉駅で肩を落とした橋本を見つけた。高校でのもう1つの挫折は、その1年前の高2の夏、渋谷が交換留学で1年間、渡米したことだ。橋本は「俺も留学したかったけれど、家の経済状態があってとても行けなかった」と話した。

 渋谷の留学に少し触れておく。橋本が言う「同盟国のせいでアメリカは貧乏になった」となる以前の、自信に満ちた国がそこに浮かぶからだ。受け入れ先は、テキサス州に暮らす、ドゲットという石油採掘会社の副社長の家だ。渋谷と同い年、スコットという一人息子がいた。

 渡米前、衣類から薬まで遺漏なくトランクに詰めたはずなのに、1年後に帰国すると、渋谷は、ドゲット家に買ってもらったスーツにネクタイ、カウボーイハットやロデオ用の長靴まで、行きの数倍の荷物を持ち帰った。現在、96歳になった母の郁子は、「アメリカの人たちはどんなに豊かなんだろうって思ったとです」と話した。

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