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「子供に見せるものじゃない」と左官職人はあわててシャツを羽織った 60代女性記者が考えるタトゥーと入れ墨

 次に見たのは、これも学齢前だ。長屋に左官職人のおじいさんがひとりで住んでいて、上半身いっぱいに何かが描かれていた。私と母親の姿を見ると、あわててシャツを羽織ったので、母親が「いいのに」と言うと、「子供に見せるものじゃないから」と恥ずかしそうな顔をした。背中の絵は大蛇のようにも見えたけれど、青いインクはシワに隠れて何が何だか。

 その青いシワをもっと間近で見たことがある。30代の半ば頃、タクシーの中だ。壮年の運転手と話していたとき「前職は何をしていたの?」と聞いたら、「おれか? ヤクザ。ほら」と言って、白いワイシャツの襟をはだけて、首の下の“モンモン(入れ墨)”を見せたのよ。

 なので私も「どれ」とシャツを引っ張ったのは、会話のテンポが合ったからよね。元ヤクザの運転手はされるがままで、「な、30年もたつと哀れなもんだろ。墨なんか入れるもんじゃねえって」と、やけにマジメな顔になったっけ。それももう30年も昔のことだ。

「あのときは覚悟を決めてやったことだから」

 それにしても、なんでこう悲しいことばかり思い出すのかしら。40代後半の一時期、常連だった駒込駅前のスナックBのマスターは黒いチョッキと白いワイシャツ、スラックス姿のいかにも夜の世界の人。壁にかかった昔の写真で、組織に入っていたことは紛れもない事実とわかり、本人もそれを隠さなかったの。

 ま、こっちにしてもそういうことはどうでもよくて、それより彼の語彙の豊富さといったらない。気晴らしの話し相手には最高で、めったに歌わない私が調子に乗ってマイクを握ってヘタなシャンソンを歌うと、なんと目頭を押さえてくれるではないの。早い話、ちょっといい感じの関係だったんだわ。

 とはいえ、あくまでも店の中の話。それがあるとき、ほかの客がいない日があって、「ヒロコちゃん、ちょっと話したいことがあるんで、つきあって」とカクカクとつっかえながら言われたんだわ。

 マスターが告ろうとしたのは、なんとなくわかったけれど、じゃあ、私はどうする。その答えを出す前に「う~ん、やっぱりいいや。おれ、背中に背負ってるし、それはどうにもならないからな」と下を向きっぱなしで言うんだよね。「あのときは覚悟を決めてやったことだから」と何度も自分に言い聞かせるように言うのを、黙って聞いていたっけ。

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