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【大河ドラマが10倍面白くなる】紫式部の父・藤原為時はなぜ「式部丞」職にこだわったのか?「平安貴族の就職事情」を探る

『紫式部図』より。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

『紫式部図』より。出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

 この4家のうち、もっとも栄えたのは北家で、代を重ねるに伴い、北家の中でも明暗が分かれた。兼家の家系を大貴族化した勝ち組の代表格とするなら、5代前の祖を同じくしながら、為時はその他大勢の負け組の一人。中小貴族のなかでもうだつの上がらない部類に数えられた。

 それでも文章院(もんじょういん)という最高学府で菅原道真の孫にあたる菅原文時から直接教えを受けた身としての矜持からか、為時は職選びに慎重を期した。第1回放送でも、親友である藤原宣孝(佐々木蔵之介)からの「えり好みできる立場か」という助言にも素直には従わず、兼家を通じて上程した自己推薦書において、式部丞(しきぶのじょう)に補任(ぶにん)されることを切に訴える場面があった。

 式部丞とは文官の勤務評定や育成、宮廷儀礼などをつかさどる式部省の三等官。学識ある者にとり最も魅力的な部署だったが、それだけに狭き門だった。確たる後ろ盾を持たず、贈賄活動をする気持ちも蓄えもないこの時点の為時に、お鉢が巡ってくるはずもない。

 式部丞ではなく、受領(ずりょう)を希望していれば、結果は違っていたかもしれない。受領とは国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者。式部丞の定員が大丞2人、少丞2人の計4人なのに対し、受領の頭数は国の数から、親王任国(親王が名義上の守を務める)の上総・常陸・上野の3か国を引いた数だけある。式部丞に比べれば、はるかに広き門だった。

 実入りを第一とするなら、中央の官職を得られるまでのつなぎとして、受領を務める選択はありだった。日本中世史を専門とする伊藤俊一著の『荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで』(中公新書)によれば、〈中流貴族にとって、受領に任じられることは富を蓄え、出世の糸口をつかむ重要な手掛かりとなった〉という。

 なぜ富を蓄えられたのか。同じく『荘園』には、〈受領国司は任国の田数に応じて決められた量の税さえ中央政府に納入すれば、国内の経営と徴税をどのように行おうと中央政府から干渉されないようになり、任国で自由に手腕を振るえるようになった〉とあり、役人でありながら、徴税請負人化していたと説明する。

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