米をまったく動かさない取引「帳合米商い」まで誕生
米の蔵出しを先延ばしにする方法は他にも考案された。残り3分の2を支払いながら現物ではなく、全代銀完納証という引換券を発行してもらうやり方で、享保年間(1716〜1735年)以降、米切手と呼ばれた。全代銀完納証には交換期限はなく、藩が存続する限りは永遠に有効。とりわけ過剰発行を常習させている藩にはありがたかった。
米手形の次は全代銀完納証としての米切手。これだけでも相当画期的だが、大坂の米商人たちはさらに知恵を絞り、17世紀末頃には帳合米商い(ちょうあいまいあきない)という一種の先物取引を考案した。
極端な言い方をすれば、帳合米商いは売りと買いの約束だけを交わし、現物をまったく動かすことのない帳簿上だけの取引である。米手形や全代銀完納証では最低でも米1石を単位とするため、相当な元手を必要としたが、帳合米商いで取り引きされるのは売り買いした時の相場の差金(価格差)のみなので、現在で言う小口投資家でも参入することができた。
問題は売り手と買い手間の決済をいかにトラブルなく実施するかだ。一対一では脅迫や暴力による不正が発生しかねないため、大坂商人たちは支配人という役職を設け、帳合米商いの一切を統括させることにした。帳合米商いに関するすべての情報を支配人のもとに集約させ、清算の場にも必ず立ち会う。これであれば一方が強面な人間でも心配はいらず、のちにこの支配人を中心とする清算機関は古米場(消合場)と呼ばれ、そこで決済を担当する米商人は米方両替(遣米両替)と呼ばれるようになった。
幕府が「不実の米商売」を容認のち公認した理由
全代銀完納証といい、帳合米商いといい、大坂商人の面目躍如と言ってよさそうだが、幕閣や規律を重んじる人の中には当時の大坂の状況を快く思わない者も多かった。大坂の懐徳堂という学問所で教鞭を執った儒学者の中井竹山は、帳合米商いを「不実な商い」「虚商」「空商」などと呼んで非難。時の老中・松平定信に対し、速やかに停止させるよう進言していた。中井の目に先物取引は単なる博打としか映らなかったのである。
だが、幕府は介入もしなければ、取り締まりに出るでもなく、しばらく黙認を続けた。そして享保7年(1722年)、1000石を上限とし帳簿上の取引を容認する方針を示したのに続いて、翌年9月から翌々年2月にかけ、さらなる緩和を実施した。