欧米列強に虐げられるアジア人種の解放を唱えた玄洋社
頭山満は福岡藩(黒田藩)の下級武士、筒井亀策の三男として生まれ、母の実家に養子入りしたことから、頭山姓に変わった。福岡では薩長閥が幅を利かす明治政府への反感が強く、頭山もその例に洩れず、不平士族の乱や自由民権運動に参画。最大規模の士族の乱となった西南戦争の結果を受け、政治結社の玄洋社が設立されると、頭山もそれに加わり、瞬く間に精神的な支柱として頭角を現わした。
玄洋社は創立にあたり、以下の3か条を活動方針とした。
【第1条】皇室を敬戴すべし。
【第2条】本国を愛重すべし。
【第3条】人民の権利を固守すべし。
いわゆる「薩長土肥」からなる藩閥に属さず、明治政府から虐げられている人民の権利を守るところに始まりながら、まもなくその範囲をアジアへと広げる。玄洋社は欧米列強によって虐げられているアジア人種の解放を唱え、日本政府の立場とは一線を画す活動に手を染めるようになった。
玄洋社の中でも頭山満の活動は際立っていた。朝鮮の金玉均(1851〜1894年)、中国の孫文(1866〜1925年)、インドのラース・ビハーリー・ボース(1886〜1945年)など、事破れ日本へ逃れてきた革命家や活動家の中でも本物と見込んだ相手に対しては救いの手を差し伸べ、保護や支援を惜しまなかった。頭山からすれば、彼らは未来のアジアにとって貴重な種もしくは芽であり、それをむざむざ摘ませるわけにはいかなかったのだろう。
朝鮮から亡命した金玉均との会談が頭山の転機になった
金玉均は日本の明治維新を模範とし、日本の助力を得ながら迅速な近代化を図ろうとした人物で、当時の朝鮮では革新的な急進開化派に分類された。改革の必要性を認めながら、清国を手本に、穏当に進めるべきとする事大党と対立。政権中枢に巣くう事大党を一気に排除すべく、1884年12月にクーデター(甲申政変)を起こすが、清国軍の介入によって失敗に終わり、日本へ亡命した。
玄洋社も頭山満もアジア主義を掲げながら、それまでは具体的活動に乏しかった。それだけに金玉均の亡命に玄洋社の面々は色めき立ち、先に金玉均との接触を図った面々からの要請で頭山も腰を上げ、金玉均がどれほどの人物か、その目で確かめることにした。
頭山満と金玉均の会談は以下の理由で、頭山にとり大きな転換点となった。近代思想史を専門とする中島岳志(東京科学大学教授)は著書『アジア主義 西郷隆盛から石原莞爾へ』(潮文庫)の中で、『頭山満翁正伝』という戦中に刊行された伝記からの引用として、会談の模様を以下のように伝えている(現代仮名遣いに変更)。