ボースが伝えた新宿中村屋の「インド・カリー」
東京・新宿中村屋の常連客に日本移民協会の幹事長で、玄洋社とも関係の深い中村弼という人物がおり、話題がボースの件に及んだ時、打開の道がなく頭山も困り切っていると聞かされた中村屋店主の相馬愛蔵が何気なく、「却って私のようなもののところなら、どうにかかくまえるのじゃないでしょうかね」と漏らしたところ、中村弼は電流に打たれたかのように反応した。
その足で玄洋社の主要メンバーで同郷の佃信夫のもとを訪れ、佃は同じく玄洋社の幹部で旧知の内田良平へ、内田は頭山に話をもっていく。そこからはスパイ小説を地でいくような、警察の監視の目をかいくぐる計画が立案・実行され、ボースはしばらくの間、中村屋の敷地内で潜伏生活を送ることとなった。
第一次世界大戦終結後の大正12年(1923年)に日英同盟が失効すると、ボースはようやく自由の身となるが、その時には中村屋店主の相馬夫妻の娘・俊子と結婚し、一男一女をもうけていた。ほどなく日本への帰化も果たした。
相馬夫妻にはどんなに感謝してもしきれないが、何かしないことには気が済まない。折から新宿では三越をはじめ、百貨店などの大型店舗が次々と進出。その煽りで中村屋の売上は大きく減り、旧態依然のままではじり貧を免れない。そのため営業時間を延長するとともに、喫茶部を開設することにしたが、その際に看板メニューに選ばれたのが、ボースが手掛けた「インド・カリー」だった。
すでに日本にもカレーは伝えられていたが、それはヨーロッパでアレンジが加えられたもので、ボースの目には紛い物としか映らなかった。そこでインド本来の味を伝えようと、入手しうる材料で作り出したのが、「中村屋インド・カリー」で、紛い物と混同されぬよう、あえて「カレー」でなく、原音に近い「カリー」の名で売り出したのだった。これが大変な評判を呼び、新宿が新たな繁華街として成長を遂げる中で、新宿中村屋も競争に負けることなく、今日も営業を続けている。
日中戦争の和平交渉に「頭山満」の名前が何度も浮上した理由
頭山満は生涯いかなる公職につくことがなかったため、「浪人の王者」とも呼ばれた。いくつもの炭鉱を経営していたことから、「炭鉱王」の異名も取ったが、玄洋社の活動費にはそれでも足りず、広く政財界からの寄付を頼りとした。
アジア各地の革命家や活動家の援助に要した金銭を投資とするなら、頭山が享受しえたリターンはいったい何か。名声はもちろん、それ以上に大きかったのは信頼の獲得だった。なかでも最大のリターンは中華民国政府のトップである蒋介石からの信頼である。