「魏志倭人伝」の『三国志』に見る“長期派兵で得られるリターン”のヒント
時期は違えども、日本列島から朝鮮半島に出兵するには将兵と武器・武具、兵糧をはじめとする戦略物資を九州北部に集め、海の向こう側へ運ぶ船団と水夫の手配も不可欠だった。
千人・万人単位の兵を集めるには大規模な動員をかけねばならず、稲作農家の場合、現在の暦で5月と9月が農繁期だから、動員期間が7か月以上に及べば働き手の絶対的な不足により、農作業に大きな支障が生じる。
日本最古の正史(国家が編纂した歴史書)は『日本書紀』だが、同書の記述からは派遣された兵の数や渡海の時期及び派遣期間に関して詳細がわかる例は少ない。とはいえ、半島への出兵が200年以上にわたって繰り返された点を考慮すれば、農閑期限定とは考えにくく、一番の働き手である壮年男子の動員とそれに伴う収穫量・税収の減少、すなわち目先のデメリットは計算ずくと見てよいだろう。
度重なる出兵はそのコストからして膨大だったはずだが、それを投資と見るならば、いったいどんなリターンが期待できたのか。
リターンの中身について、中国の歴史書『三国志』の、俗に言う「魏志倭人伝」の少し前に、答えのヒントになりそうな記述が見える。朝鮮半島南半部の「韓」は西の馬韓(百済の前身)、東の辰韓(新羅の前身)、南の弁韓(弁辰とも)の三種族からなり、12の国からなる弁辰について、次のように記す。
「この国は鉄を産し、韓・イェ(さんずいに歳)・倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。物の交易にはすべて鉄を用いて、ちょうど中国で銭を用いるようであり、またその鉄を楽浪と帯方の二郡に供給している」
ここにある「イェ」は現在の江原道一帯に居住していた民族、「倭」は日本、楽浪と帯方は中国の漢王朝が半島北部に設けた郡の名で、313年に高句麗に滅ぼされるまで存続した。
短冊状の鉄板「鉄[金偏に廷](てってい)」は鉄製品の素材として伽耶諸国から運ばれたとされる。重さに一定の規格があることから、貨幣的な機能を果たしていた可能性も(写真は福岡県小郡市花聳2号墳の出土品)出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)