現役時代、どんなに輝かしい成績を残したスポーツ選手でも、引退後の生活まで約束されている人は少ない。プロとして体を張って築いた財産を元手に再スタートを切るケースもあるなか、元プロレスラーの田上明氏は「億単位の負債」から第2の人生をスタートさせたという。なぜ田上氏は引退後、多額の借金を背負う羽目になったのか。波乱の半生に、フリーライターの池田道大氏が迫る。(文中一部敬称略)【前後編の前編】
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JR牛久駅から車で15分ほど。豊かな緑が広がる長閑な地にポツンと居を構える飲食店「ステーキ居酒屋チャンプ」(茨城県つくば市)。店内の床にはダンベルが無造作に置かれ、壁面には有名プロレスラーのオフショットがびっしりと飾られている。
「がんを手術して出てきたあと、酒飲んで酔っ払ってひっくり返って背中を圧迫骨折しちまって。いまも背中が痛くて調子悪いんだよ」
そうボヤくのは、この店を経営する元プロレスラーの田上明(63)。現役時代、身長192cm、体重120kgの堂々とした体格から大技を連発し、「ダイナミックT」と呼ばれた男はふたまわりほど体が小さくなり、師匠であるジャイアント馬場によく似た好々爺となった。
スポーツ選手のセカンドキャリアが注目される昨今、全日本プロレスで三冠ヘビー級チャンピオンに輝き、プロレスリング・ノアで業界最高峰のGHCヘビー級王座を獲得した田上はキャリアの終盤から、自身の得意技である断崖式のど輪落としで叩きつけられるような転落人生を歩み、借金苦やがん告知を経てこの地にたどり着いた。
プロレス最強王者はいかにして田舎ステーキ店の“チャンプ”になったのか——。
埼玉県秩父市の山奥に生まれた田上は中学で柔道を始め、高校時代にはバイクを乗り回して1対13のケンカをする荒くれ者だった。高校卒業前に大相撲の押尾川部屋に入門し、十両昇進後は「玉麒麟 安正」の四股名で千代の富士、高見山ら有名力士と対戦するも1987年の7月場所前に廃業し、翌月にジャパン・プロレスに入団。その後、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスに移籍し、1988年1月にデビューした。
「当時は馬場さんを筆頭にザ・グレート・カブキさんや渕(正信)さん、ハル薗田さんらがいろいろと教えてくれましたよ。相撲はコケたら終わりだけど、プロレスはコケてからまだやらないといけないのが大変だった」(田上・以下同)
1990年4月に天龍源一郎らが全日本を大量離脱したのちはエースであるジャンボ鶴田のパートナーに抜擢され、三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)らが結成した「超世代軍」との熱戦で全日本の危機を救い、鶴田が病に倒れてからは、好敵手だった川田とタッグを組んで「聖鬼軍」を結成した。三沢、小橋、田上、川田が繰り広げるエンドレスの死闘は「四天王プロレス」と呼ばれ、ファンから熱狂的な支持を集めた。