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島崎晋「投資の日本史」

「店先で現金売り」「売れ残りの値引き」…今や当たり前の小売スタイルは「三井越後屋」が元祖 豪商・三井高利が手掛けた「江戸のビジネス革命」【投資の日本史】

 高利は素直に松坂へ戻るが、老母の介護はほどほどに、金融業に精を出し、大名貸と村々を顧客とした郷貸で着実に資産を増やしていた。来るべき日に備え、実務経験と資産の蓄積に加え、手代とし働いてもらう人材の育成など、万事において怠りなかった。

 延宝元年(1673年)7月、待望の機会が突然やってきた。俊次が急死したのである。老母からの許可も得られたので、高利はそれから1か月後には江戸本町一丁目に独自の呉服店、京都に独自の仕入れ店を開設。仕入れ店は長男の高平、江戸の店は次男の高富に任せ、自身は松坂からマメに指示を出すという特殊な経営が実施された。

 京都と江戸の二拠点経営も、それに故郷を加えた三拠点経営も珍しくはなかったが、仕入れ重視の観点から、京都に司令塔を置くのが常識だったなか、故郷の松坂から全体を指揮した高利の手法は極めて珍しいパターンだった。

 長兄・俊次の店舗とは違って、高利が開かせた本町一丁目店は呉服屋の大店が居並ぶ本町通に面していた。長年の得意先を有する大店に対し、呉服屋としての三井越後屋は大きなハンディを背負ってのスタートだったが、高利はそれを克服すべく、新たな商法を次々に打ち出した。以下で紹介するが、この中には、場末の小店舗でだけに許されていたような手法もあれば、高利の遠縁の大店が実験的に試みたことのある手法も含まれていたという。

 本町通に面した大店の呉服屋では、商品を得意先に持参して売る屋敷売(やしきうり)か、あらかじめ得意先に注文を聞いて廻った上で、それに合った商品を持参する見世物商(みせものあきない)のどちらかが常識だった。支払いは二節季払いか極月払いである。しかし高利はこれらの商習慣はコスパが悪すぎるとして、店頭で接客をする店前売(たなさきうり)、精算はその場での現金払いのみとする現金売りを導入した。これであれば経費が抑えられるから、商品価格も下げられる。

 高利の工夫はこれに留まらず、前述した諸国商人売を復活させた上、反物の切り売り、店頭に出してから30日を経過しても売れ残っている商品の値下げ(原価割れも可)など、様々な手法を駆使。商品の回転率を上げ、一度でも来店した客なら、急ぎの用がなくても定期的に訪れたくなる状況を作り出した。終日店頭が賑わっていれば、それだけでも十分な集客効果が生まれたのだった。

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