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島崎晋「投資の日本史」

江戸時代にもあった「米の転売ヤー」問題 大坂商人が生み出した先物取引「帳合米商い」は「不実の米商売」と非難されたが幕府が公認するに至った事情【投資の日本史】

米不足に乗じて「米手形」を高く売る「転売ヤー」が出現

 大坂が「天下の台所」と呼ばれるようになったのは幕末のようだが、米市の形成とほぼ時期を同じくして、大坂は「天下の台所」に相応しい実質を備えていた。

 米の取引をより盛んにさせるアイデアが生じたのもその表われで、発案者は不明ながら、代銀(代金)の3分の1を支払えば、米俵ではなく、いつでも現物と交換可能な米手形が発行され、それ自体が取引の対象となった。米手形の発行元は諸大名、買い手は大坂の商人である。取引には元手があれば誰でも参加できたとされる。

 米手形1枚につき、10石(約1.5トン)の米俵と交換してもらうことができた。期限内に残り3分の2を支払えば、いつでも交換してもらえるというのだから、米の保管場所の確保と持ち運びに必要な人員の手配に慌てなくて済み、これほど便利なものはない。

 だが、問題がないわけではなかった。米手形は転売が容易なことから、幕府は米不足の到来を待って常識外れの高値で売る悪徳商売、現在で言う「転売ヤー」を警戒した。

 幕府はまず、大坂町奉行を通して米手形取引の禁止を布告したが、便利なシステムであるため禁令に効果はなく、一向に守られなかった。そこで代わりとして講じられた対策が、手形と米の交換期限を短く設定するというもの。これには諸藩が在庫以上に米手形を発行することを抑制する効果も期待された。

 万治3年(1660年)に出された布告によれば期限は「30日以内」、寛文3年(1663年)には同じく「10日以内」に短縮された。これであれば米価が大きく変動する可能性は極めて低い。投機的な買い占めは根絶され、諸藩も米切手の過剰発行を慎むはずと思いきや、いざ新制度が施行されてみれば、米商人たちは期限の迫った米切手を現物と交換するのではなく、元の売り主である蔵屋敷に買い取りを求めた。蔵屋敷のほうでも交換請求が殺到しては困るので、時価で買い取り、現物との交換を求める商人に備える方式が一般化した。

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