日本パノラマ館は直径約30mの円形木造建造物。内部の柱は中央の1本のみだったという
渋沢栄一らが設立した「日本パノラマ館」は娯楽の王者になった
江戸時代の教養ある人なら中国の古典に通じていたから、「故郷に錦を飾る文化」にも馴染みがあった。都会に出て成功した者が故郷に自分の名を冠した学校や橋を建てるといったもので、こうした土壌のあるところへ、幕末に欧米を訪れた日本人は、「ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」と呼ばれる道徳観を目の当たりにした。
この言葉はフランス生まれだが、革命を経て貴族のいなくなったフランスよりも貴族が健在なイギリスで尊ばれ、財力や権力を持つ者、社会的地位の高い者はそれに応じた社会的責任と義務を負うべきとの考え方である。当時の日本人にも理解しやすいものであったため、海外渡航歴のある実業家だけでなく、伝聞で知っただけの実業家たちにも大きな影響を及ぼした。
2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一(1840〜1931年)もその1人で、彼は500以上の企業の設立に関わり、「日本資本主義の父」と称される人物。その渋沢が大倉財閥の祖・大倉喜八郎(1837〜1928年)や安田善次郎とともに、明治23年(1890年)に浅草に設立した「日本パノラマ館」は、営利施設ではあるが、最先端の科学を利用した娯楽を日本の一般市民に広く知らしめたという点で、やはり特筆するに値する。
パノラマとは、絵画や人形、模型などを組み合わせ、実際の風景のように見せかける仕掛けのこと。直径18間(約30メートル)の円形をした建物の壁の内側に沿って、360度途切れることなく水平に続いているため、見る者は1枚の絵のように鑑賞することができた。
渋沢が慶応3年(1867年)にパリで目にしたのはナポレオンのイタリア遠征をモチーフにしたもので、渋沢はその時の感動を忘れられなかったのだろう。日本パノラマ館のオープニング展示作品には、アメリカの南北戦争を選んだ。兵士の模型とあわせ、実際に使用された大砲、小銃、サーベルも展示したオープニング興行は大成功を収め、これより活動写真(映画)が伝来するまで、パノラマは家族揃って楽しめる娯楽の王者として君臨し続けた。
なお、日本最初のパノラマ館は日本パノラマ館より半月前、上野恩賜公園にオープンした上野パノラマ館だが、建築の規模としては、日本パノラマ館の方が大きく上まわっていた。
ほとんど言及されることはないが、日本パノラマ館の成功は渋沢のビジネス感覚に対する信頼を大きく高めたと考えられる。自分も新商売を手掛けてみたいが、無残な失敗に終わるのは避けたい。そのためには渋沢に一枚絡んでもらうか相談役を引き受けてもらいたい。実業界全体にこのような空気が蔓延すれば、渋沢のもとへ依頼が殺到するのは当然の流れ。非営利の社会事業にまわす資金も苦もなく集めることができた。
続く後編記事では、明治の文明開化で危機に瀕した日本美術の守護者、大正期に活躍した世界的な西洋美術の蒐集家、新たな芸能を作り出した実業家について取り上げる。
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【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。