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【全国のシェア70%】独自の進化を遂げた日本のプラモデル、静岡にメーカーが集中している理由 ルーツである「木製模型」の頃からあった厳しい模型道

元KADOKAWA社長の佐藤辰男氏

元KADOKAWA社長の佐藤辰男氏

ガンダムが「遅効キャラ」と呼ばれた理由

 TVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の第1回放送は1974年10月、半年2クールにかけて放送されたものの視聴率は終始低かった。そのため終わり方が尻切れトンボで、熱狂的なファンの不満がたまり、映画化への希望が高まった。ファンの後押しで1977年に『宇宙戦艦ヤマト(劇場版)』が公開され、大ヒットした。

 TVアニメ『機動戦士ガンダム』の放送は1979年4月から。『ガンダム』を企画した1人でサンライズ創業メンバーの山浦栄二は、『宇宙戦艦ヤマト』の成功をヒントに「ハイターゲットに絞って30万から40万の熱狂的なファンをつかめば、それで充分商売になると思った」と『ガンダムエイジ ガンプラ世代のためのガンダム読本』(『映画秘宝』関係者の中にいたガンダム野郎 編、洋泉社)に発言を残している。

『機動戦士ガンダム』のテレビ放送も『宇宙戦艦ヤマト』同様不人気で、1年間52話の予定を急遽43話で強制終了せざるを得なかった。当時主流だった低年齢層の視聴者には理解できない内容だったから、この成り行きはやむを得なかったが、“おたく”の熱気はすでに存在していた。『宇宙戦艦ヤマト』を契機に生まれた何誌ものアニメ雑誌が次々に特集し、『宇宙戦艦ヤマト』同様、『機動戦士ガンダム』にも映画化への機運が生まれた。

 バンダイ模型が『ガンダム』のプラモ化に着手したのも「とにかく出してみよう」程度の意識で、ヒットするかどうかは半信半疑だったと、バンダイグループのコンサルタントをしていた土屋新太郎が、その著書『キャラクタービジネス その構造と戦略』で伝えている。

『機動戦士ガンダム』のプラモ化第1弾『1/144 ガンダム』と『1/100 ガンダム』の発売は1980年7月で、テレビ放送が終わって半年も経っていた。発売後まもなくは顕著な動きはなかったが、9月にガンダムのライバル機である『1/144 シャア専用ザク』が発売されてから動き始め、劇場映画公開が発表された翌年の1981年正月商戦で人気が爆発、どの店も売り切れとなったと『日本プラモデル六〇年史』(小林昇 著、文藝春秋)に記されている。

『キャラクタービジネス その構造と戦略』のなかで土屋は、『ヤマト』や『ガンダム』のようなキャラクターを遅効キャラと呼んだ。テレビ放送はすでになく、劇場映画3部作の間隔も空いてファンは飢餓状態に置かれた。その間におたく(第1世代は1960年前後に生まれ、団塊の世代から遅れた谷間の世代と言われた)のエネルギーが蓄積され、どこかで沸点に到達する、というほどの意味か。

※佐藤辰男著『エンタメ(IP)100年史 創業者のエウレカ、継承者の転換』(KADOKAWA Game Linkage発行/KADOKAWA発売)より一部抜粋して再構成。

ファミコン編につづく

【プロフィール】
佐藤辰男(さとう・たつお)/1952年静岡県生まれ。1976年に日本トイズサービス入社。おもちゃの業界新聞『週刊玩具通信』の記者を経たのち、角川歴彦に企画を認められたことがきっかけとなり、1983年に雑誌『コンプティーク』を創刊する。1986年に『コンプティーク』が好調のなか、角川書店の100%子会社として設立された角川メディア・オフィスの取締役に就任。1992年に同社を退社後、メディアワークスを立ち上げ、さまざまな雑誌・レーベルの創刊に携わる。1995年に同社の社長に就任。以降、角川グループホールディングス代表取締役社長、KADOKAWA・DWANGO(カドカワ)代表取締役社長などを務めた。著書に『怠惰な俺が謎のJCと出会って副業を株式上場させちゃった話』(KADOKAWA)などがある。

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