かつての「動物占い」と「MBTI」の扱いは何が違うのか
ただ、この流行は「自己紹介」という行為の形骸化ではないか。かつての就活生が、マニュアル通りに「私には納豆のような粘り強さがあります」と語ったのと同様に、現在は「私は○○型です」という記号が自分を説明する便利な定型句として消費されている、と思う。そして記号化された自己紹介は、複雑な人間性をわずか16のタイプに押し込める。相手の個別性を深く探ろうとする姿勢を放棄させる思考停止を招きかねない。
SNSで話題が瞬時に移ろう中、共通の話題としての「MBTI」は、かつての「動物占い」のようなアイスブレイクとしては機能する。だが、それが本来の自分を語る言葉として定着していくことには、疑問を呈さざるを得ない。「動物占い」の扱いはあくまでも人間の一部を切り取ったエンターテインメントや参考資料に過ぎなかった。しかしMBTIはもはや共通のキーワード、言語として機能している。自分という人間を示す、あるいは相手を理解しようとする際の「中心」でさえある。
「本当の自分」を出すのは「面倒くさい」
組織の多様化が進み、背景の異なる人間同士が向き合う機会が増えている今こそ、便利なラベルに頼り切るのではなく、泥臭い対話を通じて相手の複雑さを理解する姿勢が求められよう。もっとも、「本当の自分」なるものをさらけ出す「真の自己紹介」は、勇気がいる。型にはまりきらない自分自身の多面性を、時間をかけて伝えていくよりも、「タイパ」重視なのだろう。そもそも、「本当の自分」をさらけ出す必要があるのかという議論もある。
共通の接点がつくりにくい時代である。しかも、下手なことを言うと地雷を踏む。地雷を踏むのが怖いという気持ちもよくわかる。たとえば、胆力も鈍感力もあると自任する私は、ズケズケと、人に対して自分を押し出してしまう。プロレスラー・棚橋弘至引退の話も、日本や北欧のメタルバンドの話もズケズケとしてしまう。ただしプロレス、ロックの話をすれば、場合によってはさらに細分化されたジャンルの話になり、そこで噛み合わないことがある。
そういえば、同世代の男性数名で、しかも全員、著者、編集者というつながりでメタル飲み会を下北沢で開いたことがあった。メタル好きと言いつつ、その中での好きなジャンルが異なりすぎた上、それぞれマニアックだったので、どこか白けた飲み会になった。