大学の「学科」の定員数まで暗記
――竹原さんは岡山大学の法文学部を卒業し、1976年に新卒でリクルートに入社しています。国立大なら、もっと大手の会社にも入れたのでは?
竹原:ゼミの教授が某大手電機メーカーや都市銀行(現在のメガバンク)の推薦枠を持っていましたし、体育会のキャプテンもしていたので、大手企業への就職は可能だったと思います。本が好きだったので出版関連の仕事に興味があり、情報誌を出しているリクルートの面接も受けてみました。
すると社員の9割が20代で、他の大企業とは随分様子が違う。おまけに自分と歳の変わらないリクルーターから役員まで、会う人、会う人の言うことが一貫している。当時私は仕事というのは「会社が決めた、広い道路の中で、工夫したり努力したりするものだ」と考えていましたが、リクルートの先輩たちは「あなたが道を創らなきゃいけないこともある」「それこそが楽しいんだよ」と言う。
極め付けは役員面接の最後です。江副さんはこう言いました。「22歳までの人生は、歴史を学ぶ立場だったと思うが、22歳からの人生は歴史を創っていく立場に180度変わるんだよ。ウチに来るかどうかはあなた次第だが、それだけは頭に入れておいた方がいい」就活の最後の数日で、コロっと参りました。
――「22歳からは歴史を創っていく立場に180度変わる」。すごい言葉ですね。
竹原:江副さんは「言葉」へのものすごいこだわりがありました。「自分の言いたいことが、この言葉でちゃんと伝わるか」をいつも真剣に考えていた。入社して数年した頃、江副さんが「マネジャーに贈る20章」と言う管理職向けの心得を書かれたのですが、推敲に推敲を重ねた文言を、高卒の女性社員に読ませ「こういうことが言いたいんだけど、この表現でわかるか」と聞き、「わかりません」と言われて「うーん」と唸っていたそうです。
新入社員へのメッセージなど、社内向けの発信をするときはいつも真剣勝負です。(経営学の泰斗)ピーター・ドラッカーの『現代の経営』を片時も離さず、伝わる言葉を探していました。そこから生まれたのが「自ら機会を作り出し機会によって自らを変えよ」という有名な社訓です。
――1960年代、70年代の日本の経営者は、あまり多くを語りませんでした。組織の均質性を前提に「このくらい、言わなくても分かるだろう」「皆まで言わせるな」という雰囲気になっていて、周囲がそれを忖度しました。高卒、女子、外国の若者を即戦力として採用したリクルートは多様性に満ちた組織で、江副さんは「伝わらない」ことを前提に経営をしたんでしょうね。
竹原:江副さんは伝えることに膨大なエネルギーを使った経営者でした。会社がとても小さい時から対外的なメッセージを発信する広報部とは別に、社内広報部を作って7人の正社員を貼り付けました。会社の方針や毎週の出来事をスピーディーに伝える「週刊リクルート」、江副さんをはじめ経営陣の哲学など深い話をじっくり伝える「月刊かもめ」を中心に、各事業部、地域ごとに社内報があって、最盛期には120種類くらいの社内報が発刊されていました。トイレに入って個室に座ると顔の正面の壁には「元気通信」というのが貼ってある(笑)。
その情報量たるや凄まじいものがあって、社員数が1000人を超えた段階でも、自分とは関係のない部署の社員のことも、まあまあ知っていたりして。江副さんは、長年の組織運営の研究の結果、社員同士の情報共有度・信頼感が高い組織の方が大きな成果を上げやすいことを知っていたのだと思います。
――江副さんのもう一つの経営の特徴に、徹底的な採用重視があります。
竹原:リクルート事件で経営の一線から退いた江副さんから、「江副さんの経営とは何だったのか」についてお話を伺ったことがあるのですが、「優秀な仲間を集めること」と「集めた人たちが仕事をしやすい環境を作ること」の二つが江副さんの経営の要諦である、というお話でした。そのくらい、採用には力を入れていたし、何より採用が好きでした。
リクルートの会長を辞めて3、4年した頃、何人かで会いに行くと、事業の話ではなくて「今年の採用はどうなの」と。採用の責任者が「今年の採用は……」と色々話している中で、「今年は東北大学の法学部より名古屋大学の法学部の新卒が多い」と説明すると「東北大学の方が学部の定員が多いのだから、それはおかしいのでは?」と指摘していました。多分、全国の有力大学の学部・学科の定員は全部頭に入っていたのだと思います。異常ですよね(笑)。
――竹原さんはリクルートで『住宅情報』やNTTの通信回線をリセールするI&Nの事業部などを経て、1988年に総務部長になりました。
竹原:総務部長としての最初の大仕事は会長・社長就任のパーティーでした。その年の1月に江副さんが会長に、位田さん(位田尚隆氏)が社長に就任することが発表されました。リクルートにとっては初めての社長交代だったので、東京ではホテルオークラで盛大にお披露目をやりました。
しかし、パーティーからわずか3か月後、リクルートを、そして日本中を揺るがす未曾有の大事件「リクルート事件」が勃発する。創業者を失うという危機から、なぜ現在の時価総額15兆円企業へと這い上がることができたのか。事件の収拾にあたった竹原氏が明かす、どん底からの大復活劇とは。
【後編に続く】
【プロフィール】
大西康之(おおにし・やすゆき)/ジャーナリスト。1965年生まれ、愛知県出身。早稲田大学法学部卒業後、日本経済新聞社に入社。欧州総局(ロンドン)、編集委員、「日経ビジネス」編集委員などを経て2016年4月に独立。著書に『稲盛和夫 最後の戦い――JAL再生にかけた経営者人生』『会社が消えた日――三洋電機10万人のそれから』(いずれも日経BP)、『ロケット・ササキ――ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正』(新潮社)、『東芝 原子力敗戦』(文藝春秋)、『起業の天才!――江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(新潮文庫)、『最後の海賊――楽天・三木谷浩史はなぜ嫌われるのか』(小学館)など。最新刊は『修羅場の王――企業の死と再生を司る「倒産弁護士」142日の記録』。