郡山城の天守台石垣に残る「さかさ地蔵」。築城を急いだ秀長は仏像や墓石まで石垣の材料として用いた(イメージマート)
「奈良における商売」を一切禁止した秀長の過激政策
大和1国と伊賀の一部を加増されたことで、秀長は100万石の領主と呼ばれるようになったが、それは随分と誇張された数字で、耕作に適さない山林地帯の多さから、実際の収穫量は75万石前後と推測される。それでも豊臣一門の中で、秀長が秀吉に次ぐ存在であることには変わりなかった。
秀長は大和での居城を寺社勢力が集中する南都=奈良(現・奈良市)ではなく、前任の筒井順慶が拠点とした郡山に構えることとし、新たな城郭と並行して城下町建設も進めさせた。
秀長には寺社勢力の力を削ぐ役割が託されており、そのために実施した具体策については、戦国時代の政治・軍事史を専門とする柴裕之氏の編著『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究14』(戎光祥出版)所収の、郷土史家・秋永政孝氏の論考「豊臣秀長の築城と城下政策」に詳しい。
秋永氏によれば、「秀長は入部とともに郡山城下町の経営にとりかかった。お手本は信長の経営した安土城下の山下町にある」とし、「郡山城下の急速な繁栄をはかることが秀長の急務であるとするならば、門前町奈良に弾圧を加え、極端な郡山城下保護の政策により、一挙にその繁栄を移してしまうほかにない」との考えのもと、「奈良における商売は一切これを禁止し、商売希望のものは必ず郡山で行えという厳しい命令を出した」。「当時の日常品であるミソ(味噌)、サケ(酒)、柴木(薪)、菜(葉野菜)、ノリ(海苔)、ユワウ(硫黄)など、すべて郡山城下においてのみ商売を許される」(丸括弧内は筆者加筆)という徹底ぶりだった。
秀長が郡山城下で実施した「町民による自治」の先駆け
温厚なイメージの強い秀長には珍しい極端な政策だが、その甲斐あって、天正16年(1588年)時点には、本町・魚塩町・堺町・柳町・今井町・綿町・藺町・奈良町・雑穀町・茶町・材木町・紺町・豆腐町・鍛冶屋町の14町が成立。このうち鍛冶屋町は本町の枝町であったから、秀長の存命時に、郡山城下の基本となる13の町が成立していたことになる。
業種や取り扱う商品の違いにより区分されたと思われるこれらは「本町十三町」と称され、秋永氏によれば、秀長の養子秀保の代には営業業の独占権の見返りとして、「公用伝馬・警備・火消・課税・訴訟その他一切の民政に関する政務を自治的に、町の順番にしたがい交代して執り行う」町方自治の任務を負わされることとなった。
のちに江戸で採用された株仲間(独占的な同業者組合)も町民たちの自治制度に繋がっているから、それが郡山の城下町を手本としたのであれば、秀長による統治はより高く評価されて然るべきだろう。
▼▼▼前編記事▼▼▼
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【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。最新刊に『弱肉強食の世界史が教える 超大国の興亡』(ビジネス社)。日本史上の巨大プロジェクトの舞台裏を危機管理という視点で迫った『危機管理の日本史』(小学館新書)も話題。
