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島崎晋「投資の日本史」

江戸時代にもあった「米の転売ヤー」問題 大坂商人が生み出した先物取引「帳合米商い」は「不実の米商売」と非難されたが幕府が公認するに至った事情【投資の日本史】

 ミクロ政策分析を専門とする高槻泰郎(神戸大学経済経営研究所准教授)は著書『大坂堂島市場 江戸幕府vs市場経済』(講談社現代新書)の中で、幕府が方針転換を明らかにした要因として、享保年間の米価下落を特筆している。以下は江戸から上方に向けて出された指示の一例。

〈京・大坂において行われている不実の米商売の件であるが、米価が下落している時は、細かく吟味をする必要はない〉

 つまり、全国で新田開発が限界にまで達するかたわら、全国的な人口増加にも歯止めがかかり、米余りが顕著になった。武家の収入は米の換金に頼っているから、米価の著しい下落は自分たちの首を絞めることにつながる。下落した米価を少しでも引き上げたいとの思いから、〈米価が低調に推移している限りにおいて不実の商いを黙認する〉方向で、幕閣の意思統一が図れたのではないかと著者は推測しているのだ。

 また、大坂を名指ししているのは、大坂が「天下の台所」で、〈米価を上昇させるためには、取引需要を喚起する必要がある〉との考えに拠るという。武家の収入源である米価の維持=リスクマネジメントのために、価格高騰のリスクがある「大坂商人たちの不実の商い」を認めざるを得ないというジレンマが生じていたのだ。

 数次にわたる米取引の規制緩和を公表しても、なお米価に上昇する兆しが見えてこないと、幕府はとうとう大坂における米取引について重大な決断を下した。時に享保15年(1730年)8月のことで、高槻前掲書によれば、その時のお触れは以下の通り。

〈大坂における米取引について、昔からのやり方で、諸国の商人や大坂米仲買が「流れ相場商い」を勝手に行ってよい。米方両替についても、これまで清算を行ってきた五〇軒余りが、今後も引き続いて担当し、取引の内容に応じて敷銀や差金の勘定を、前々の通りに行うこと。随分と手広に取引し、少しでも米商売の妨げになるようなことがないようにすべきである。つまるところは、米相場が宜しくなるためのことであるので、その趣旨をもって思うままに取引をすべきこと〉

 大坂で行われていた帳合米商いが公認されたわけで、日本史上これをもって、堂島米市場の公認と見なされている。

 大坂の米市場はもともと淀屋橋南詰に自然発生したが、元禄10年(1697年)には新たに開発された堂島に移されていた。現在の大阪市北区堂島浜1丁目の堂島公園のある場所がそれである。

 アメリカで商品先物取引所のシカゴ商品取引所が設立されたのは1848年のこと。その際には大坂堂島米市場をおおいに手本にしたとも言われている。

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。

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