60歳超えた野球評論家は「収入激減」
1956年のプロ入り以降、大投手としての輝かしいキャリアを築いた米田氏だが、現役時代を振り返りながら、「昔は給料も安かった。ボクは最高で(年俸)1580万円。成績を残しても“前例がない”と上げてくれなかった」と語り、プロ野球独自の年金制度が廃止されたことも嘆いた。
1977年の引退後のセカンドキャリアのなかでも、大きな浮き沈みがあったという。西宮市内でスナック「セナ350」を経営する一方、在阪放送局やフジテレビ『プロ野球ニュース』で解説を担い、日刊スポーツの専属解説者を務めていた頃は、収入面も順調だったという。
「テレビのギャラが年1000万円、スポーツ紙が500万円」と米田氏は明かした。ただ、その後に阪神(1985~86年)、オリックス(1992~93年)、近鉄(1995年)でコーチを務めた際は解説者の仕事を離れ、「コーチをクビになると、再度は(解説者として)雇ってもらえないことがある」とも話した。
そして、「60歳を超えた野球評論家の仕事はほとんどなくなる。厳しくなるんや。2000年に野球人として最高の栄誉である野球殿堂入りをして、米子名誉市民としても表彰された。野球人としては満足できるが、収入は激減です」と語るのだった。
波瀾万丈のマネー人生を送った米田氏。その米田氏は、本誌・週刊ポストの取材に対して、幼少期から75歳までの自身の人生を5年ごとの「十五番勝負」に喩えて、詳細に振り返ってくれている。関連記事『缶チューハイ万引きで逮捕の350勝投手・米田哲也氏が語っていた「人生十五番勝負」の遍歴 序盤中盤は白星重ねるも晩年に連敗…11勝4敗でも「圧倒的な負けの感覚もある」』で詳報している。