お布施はいったい何に使われているのか(イメージ)
「お気持ちです」。そう僧侶に言われても、いくら包めばいいか戸惑うお布施。不明瞭な会計ながらも、法事を執り行ってくれた僧侶に渡していた人も多いのではないか。だが昨今では、民間業者が僧侶へのお布施も含めたプラン、僧侶を呼ばずに親族だけのお見送りと火葬だけというサービスも登場。お布施の存在感が薄れつつある。
その大きな要因は、葬儀の簡素化・非宗教化だ。鎌倉新書の「お葬式に関する全国調査」(第6回2024年)によると、2015年に3割ほどだった家族葬(通夜・葬儀・告別式があり、参列者を親族血縁・一部の友人のみに限る)が、2024年には5割にまで拡大している。一日葬(告別式のみ)が1割、宗教儀式がなく火葬のみを行う直葬・火葬式も1割弱ある。
仏教学者の清水俊史氏は、「元来、お布施はサービスへの対価ではない。しかし、実際問題として、現代社会におけるお布施は、『サービスへの対価』として払っている側面が色濃く、その存在意義が根底から崩れようとしている」と指摘する。
こうした中で、私たちはお布施をどのように捉えればいいのだろうか。
初期仏教から現代仏教に至るまでのお布施のあり方を再確認し、現代のお布施の意義を改めて問い直した清水氏の著書『お布施のからくり「お気持ち」とはいくらなのか』を一部抜粋して再構成、僧侶のお布施の使い道による功徳の違いについての考察を紹介する。
古代インド仏教では、お布施といえば「食べ物」の贈与
お布施で渡したお金が、いったい何に使われているのか。多くの施主が気にするところだろう。
古代インド仏教において、お布施といえば「食べ物」の贈与を指すことがほとんどである。すなわち、出家者は毎日午前中に托鉢を行い、生産活動には一切携わらない。施主が食事を与えることが功徳になるのは、托鉢によって得た食物で出家者が命をつなぎ、修行に励むことで“善”を完成させるからである。
初期仏典によれば、悟りを得る前に苦行で生死の境をさまよっていた釈尊にスジャーターが捧げた乳粥こそ、最も大きな果報をもたらすお布施として説かれている。その理由は、この乳粥によって釈尊は命をつなぎ、修行に励むことが可能となり、ついには最高の“善”である悟りを得たからである(『長部』一六経「大般涅槃経」)。
ゆえに、出家者が、お布施を受け取っておきながら修行をサボるどころか、禁欲や自制などの戒すらもろくに保っていないのであれば、せっかくお布施をしてもその果報は小さくなってしまう。
したがって、在家者が誰にお布施をするのか、またお布施が本当に仏道修行に役立っているのかを適切に見極めることは、その果報を実り豊かなものにするうえで重要である。同時に、出家者が戒を守り、出家としての責務を全うすることは、お布施を受けるにふさわしい存在であるためだけでなく、お布施を施した人々に大きな果報を生み出すためにも重要である。お布施には、在家者と出家者の双方が互いに利益をもたらす関係を築くという意義が含まれている。