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ライフ
仏教学者が読み解く「お布施」の効用

仏教学者が読み解く「推し活とお布施」 CDを大量購入、動画配信への投げ銭は交換やサービスの対価を超越した“真のお布施” 僧侶も学ぶべきアイドルの“尊さ”の正体

推し活で使うお金を「お布施」と呼ぶファンは多い(イメージ)

推し活で使うお金を「お布施」と呼ぶファンは多い(イメージ)

 葬儀や法事で、読経や戒名に対するお礼として渡す「お布施」。サービスへの対価ではなく、あくまで僧侶への感謝の気持ちを表すものという位置付けだ。そして現代では“推し活”でも、グッズやCDの購入、投げ銭などの消費行動を通して、推しや好きな作品などを応援する気持ちを“お布施”と呼ぶことがある。

 もし両方の功徳を考えた場合、推し活という消費行動と本来のお布施のどちらが、より果報を得られるのだろうか。仏教学者の清水俊史氏は、「『お布施したい』と思わせるほど尊いかどうかにかかっている」という。

 清水氏の著書『お布施のからくり「お気持ち」とはいくらなのか』より一部抜粋して再構成、「推し活」と「お布施」の功徳の違いについての考察を紹介する。

「お布施したい」と思わせるほど尊い対象か

 現代の日本仏教においては、ブッダや宗祖の戒めを堅持する僧侶が稀である以上、お布施に大きな果報をもたらす立派な僧侶もまた稀である。したがって、せめて施主側が「お布施してよかった」と心から感じられなければ、そのお布施が十分な果報をもたらすことは期待できない。日本仏教が形骸化している現状では、お布施に値するかどうかは、もはや僧俗の差ではなく、その団体や人物が「お布施したい」と思わせるほど尊いかどうかにかかっていると言える。

(中略)

 このような原理原則を踏まえると、破戒僧に渋々お布施をするよりも、アイドルに対して純粋な気持ちで“推し活”をするほうが、よほどお布施として果報が大きいと言えるだろう。

“推し活”には「宗教的衝動」の側面がある

 そもそも“推し活”には、理論を超えた宗教的衝動の側面がある。たとえば、CDが発売されれば、それを聴くわけでもないのに大量購入したり、動画配信があれば見返りを求めることなく投げ銭をしたりする。このような“推し活”こそ、交換やサービスの対価を超越した真の意味でのお布施と言える。

 その際の施主(ファン)の気持ちは、散財しながらも「応援したい」「応援できてよかった」という極めて強い満足感に満ちていると推認される。このように施主(ファン)の気持ちが強まるのは、巷の破戒僧たちよりも、アイドルのほうが出家者としての資質をより備えていると判断されるからである。

 なぜ、出家者は尊いのか――それは、厳しい戒を保ち、「性欲を満たしたい」「異性と付き合い結婚したい」「苦労せず楽をしたい」「嗜好品が欲しい」「娯楽を楽しみたい」「贅沢をしたい」「美味しいものを食べたい」といった、人間に自然と湧き起こる欲求を抑え、世俗的価値観からすればあえて不幸な境遇に身を置き、修行に励みながら、世俗社会の安寧と幸福を願っているからである。

 では、なぜアイドルは尊いのか――それは、恋愛という人間の本能を抑止し、安い給料にもかかわらず、ファンのために日々厳しいレッスンに励む姿が、まさに現代の出家者と言えるからである。恋愛禁止が戒として機能し、もし恋愛が発覚すればグループから“卒業”や“活動自粛”を余儀なくされるという厳格さは、日本仏教が世襲妻帯を黙認している現状よりも厳しい。このことを考えると、仏教教理に照らし合わせても、アイドルと破戒僧のどちらにお布施をするべきかは明白である。

次のページ:本来はアイドルよりも尊い存在であるべき僧侶
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