いつの時代も、成功を夢見て上京する若者がいるが、「そんなに気張らなくてもいいじゃん」と話すのは、女性セブンの名物ライター“オバ記者”こと野原広子さん(65)だ。18才の時に茨城から上京したオバ記者が、自身の体験を振り返り、「田舎者にとって都会がどういう存在なのか」を綴る。
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東京から100km足らず、人口3万人の田舎町で生まれた私にとって東京は、憧れの街というよりもう少し身近で“その気になれば会いに行けるアイドル”といった感じ。
とは言っても、私が子供だった頃は「東京から来た人」「東京で買ってきたもの」が厳然とあって、それは必ずキラキラしている、というのがお約束だったの。
そんな私が初めてひとりで上京したのは中2のとき。親戚に小さな灯籠を2つ届けるという用事ができたんだよね。
「我が強い」と子供の頃から言われた私と義父がぶつかるようになり、中2になると3日にあげずの怒鳴り合い。私が義父を無視したり、あてこすりをしたりと、まぁ、どう考えても扱いやすい娘じゃなかったと思う。
ところが、「東京」という地名が出たとたん、家の空気がガラッと変わったのよ。義父は地元・茨城から中卒で東京・青山のパン屋の見習い職人として上京して青春時代を過ごした人。茨城に帰ってきて私の母親と再婚してからは、仕事が長続きしないし、地元の人ともしっくりいかない。ま、居場所がなかったんだね。だからといって子供だった私を、町のチンピラのけんかのような言葉で怒鳴りあげることはなかったと思うけれど、それはともかく。
私が「東京に行きたい」と言うと、義父は「東京のことなら任せておけ」と二つ返事。東京に電車で行く方法から、東京に行ったら気をつけること、それを繰り返し話してくれて、私もいつになく義父の話を素直に聞いていたんだと思う。
わが町から東京に行くためには、いまはなき関東鉄道筑波線というディーゼル機関車に乗って1時間かけて土浦まで出て、常磐線に乗り換えてさらに上野まで1時間。が、目的地は西武新宿線の中井駅で降りる叔母の家だ。駅から叔母の家への道は、小4から従姉妹の子守りで夏、冬を過ごしていたからわかっている。
義父が心配して何度も言っていたのは中井駅に行くまでの乗り換えのことだ。
「いいが。上野まで行って乗り換えるより日暮里で降りっちめ。それで山手線の新宿行きの方に乗んだど。山手線は“ぐるり廻るは山手線”って言ってな。乗ってれば元の駅に戻ってくっけど、そうすっと時間ばかりかがっから、いいが、新宿方面に乗って高田馬場で降りんだど」
覚えるも何もない。朝から晩までこれを聞かされたら、耳にタコ。「ぐるり廻るは山手線」というフレーズの歌がいまも耳の奥に残っているんだから、義父は同じことを何回言ったんだろう。
しかし実際、親と一緒に乗る電車と、ひとりだけで乗る電車はまるで別もので、緊張で田舎娘の赤いほっぺは引きつっていたと思う。