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徳川家康の天下を盤石にした関ヶ原の戦いの「戦後処理」 大名の半分近くが淘汰、600万石を没収・再配分

関ヶ原の勝利後、家康は豊臣恩顧の大名をどうて手なずけたのか(写真:イメージマート)

関ヶ原の勝利後、家康は豊臣恩顧の大名をどうて手なずけたのか(写真:イメージマート)

 戦国乱世を生き抜き天下人となるまでを描いてきたNHK大河ドラマ『どうする家康』の放送も残り約1か月。家康が開いた徳川幕府が260余年続くうえで不可欠だったのは、もちろん、「関ヶ原の戦い」における勝利である。豊臣政権の重臣だった石田三成と家康が対立し、全国の有力大名を二分する形で行われた大勝負だが、歴史作家の島崎晋氏は、さらにその「戦後処理」が重要だったと見る。島崎氏が解説する。

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 NHK大河ドラマ『どうする家康』もいよいよ終盤にさしかかり、11月12日放送の第43回「関ヶ原の戦い」では、徳川家康(松本潤)と石田三成(中村七之助)との対決に決着がついた。次週の「徳川幕府誕生」では、さらりと触れられる程度と思われるが、戦後に行なわれた論功行賞は、江戸に幕府を開設することを念頭に置いての細かな配慮が施されていた。

 関ヶ原の戦い(1600)は、終わってみれば圧勝だったが、もし豊臣秀頼が大坂城を出て、戦場に姿を見せていたなら、勝負はどう転んでいたかわからない。秀頼が大坂城で健在な限り、福島正則や加藤清正など、豊臣恩顧の大名に対する警戒心を解くわけにはいかなかったようだ。

 けれども、秀吉子飼いの大名を手なずけられるならばそれに越したことはない。とりあえず家康は、自ら率いる東軍に味方した彼らの働きに手厚く報いることにした。

 そもそも、秀吉が起こした朝鮮出兵=文禄・慶長の役(1592〜1598)は占領地をすべて放棄しての全面撤退に終わっている。恩賞に値する働きがあっても付与できる土地がなかったが、関ヶ原の戦いを終えた今は違う。西軍についた諸大名と会津の上杉景勝、常陸の佐竹義重などを改易または減封に処したところ、没収総石高は600万石以上に及んだ。実に全国総石高の3分の1に達する数値である。これには豊臣家の直轄領のうち、諸大名(西軍方)に預けられていた157万石も含まれる。

 多くの歴史研究が明らかにしている通り、家康はそのうち200万石余りを徳川一門と譜代の家臣に、それ以外の400万石を豊臣政権下で台頭した大名たちに割り振った(後述)。東軍の勝利に大いに貢献したのだから、加増自体は当然だが、関ヶ原の戦い前と比べて、2倍かそれ以上の加増を受けた者もいるのだから気前がよい。

 明言はされていないが、これには文禄・慶長の役に対する恩賞も加算されていたのかもしれない。秀吉がなすべきだったことを、遅まきながら家康が実施する──これにより、新たな天下人が誰なのかをより強く印象付けようとしたとは考えられないだろうか。

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