この店は坪内祐三さんと初めて会った店だ
作家との思い出
この日、私は、1冊の文庫本を携行していた。坪内祐三著『文庫千趣味』の第1巻だ。1996年から2020年まで『週刊文春』に連載された「文庫本を狙え!」という書評コラムの1056回分を網羅した私家版で、数日前に送っていただいていた。
連載2回目で取り上げているのは、山口瞳著『江分利満氏の華麗な生活』だ。もともと新潮文庫に入っていたのだが、ここでは復刊された角川文庫版を取り上げている。このときが山口瞳の逝去からほぼ1年後であったと読んだとき、私はその時代に引き戻された。
敬愛する山口瞳に取材したのは亡くなる前年だったから、1994年のことだ。1時間ほど、お話を聞いた。とても緊張して、何をどう聞いたのかよく覚えていないが、作家はとても穏やかで、インタビューも一段落したときには、せっかくだから食べてくれよと茶請けの菓子を薦めたのだった。
とても怖い人ではないかと勝手に想像していたが、そうではなかった。辞去するときは玄関まで送ってくださり、一生懸命書けば、必ずいいことがあると、激励してくださった。
思い出すたびに涙が出そうになるのだが、坪内祐三さんに初めて会ったときも、よく似た印象をもった。
場所は、ほかならぬ「割烹 味とめ」。つまりは、今、キヌカツギでビールを飲んでいるこの店だ。
「焼酎はキンミヤだけど、一升瓶でいいよね?」
たしか坪内さんはそう言って、インタビューの間に飲む酒を選んだ。そして、この店の女将の出身地である房総半島の魚介を、店に代わって薦めてくれた。ひたすら緊張している私と倉嶋さんに向かって、クジラは好きか、せっかくだからウツボも食べてみてよと早口で言い、次々に注文してくれた。話もおもしろかった。酔ってどれほどの失敗をしたか。おもしろおかしく、慣れ切った話しぶりではなくて、どこかに含羞がある語りだった。私は、2時間半くらいのインタビュー中、ただただ聞き惚れ、キンミヤを飲み、一升瓶は、空になった。
