兵庫県朝来市に残る生野銀山の史跡(時事通信フォト)
年貢、銭、労働力からなる戦国大名の収入源
そもそも戦国大名の収入源とは何であったのか。貨幣経済史を専門とする名古屋市立大学教授・川戸貴史氏は著書『戦国大名の経済学』(講談社現代新書)の中で、多くの戦国大名に共通する財源を以下のようにまとめている。
【年貢】農林水産、牧畜業への課税
【公事】朝廷の行事に必要な物資や労働への課税
【段銭(反銭)/棟別銭など】国家的事業(内裏造営や遷宮など)の際に徴収した臨時税
【関銭/津料】道路や港湾の利用に対する課税
【その他】守護役(守護の場合)、軍役・陣夫役・普請役(いずれも労働奉仕)
また中世史を専門とする駿河台大学教授・黒田基樹氏は著書『戦国大名 政策・統治・戦争』(平凡社新書)の中で、「戦国大名は、領国一律に〈国役〉と称される公事を課した」「大きくは銭貨を徴収する役銭と、労働力を挑発する夫役に分けられる。北条氏の場合では、役銭には反銭・懸銭・棟別銭・城米銭などがあり、夫役には大普請役・陣夫役などがあった」として、それぞれの中身について、以下のように説明している。
【反銭(段銭)】田に対する賦課役
【懸銭】畠に対する賦課役
【棟別銭】屋敷地に対する賦課役
【城米銭】本城や支城に備蓄しておく兵粮米の購入資金として賦課されたもの
【大普請役】軍事拠点の構築や修築のための労働力を徴発するもの
【陣夫役】戦陣のたびごとに、人・馬を徴発するもの
織田信長の場合、上に列挙した諸税に加え、自治都市の堺や都の町衆に対し、必要に応じて矢銭(軍事費)の提供を要求。さらには関所の撤廃など、商人にとりメリットとなる政策を実施した見返りとして、暗に献金を求めるなど、あの手この手を駆使していた。
「宝の山」生野銀山を手に入れた豊臣兄弟
秀吉・秀長兄弟もこれらの先例を踏襲したと思われるが、結果として中国戦線にまわされたこと、および播磨・但馬2か国と丹波福知山を付与されたことは、2人にとって吉と出た。とりわけ注目すべきは但馬の生野銀山と丹波福知山だった。
生野銀山は天文年間(1532〜1555年)に発見された歴史の浅い銀山だが、その産出量は毛利領内の石見銀山(現・島根県大田市)と並ぶほどだったという。当時の世界において、最大の銀産出地はスペイン領だった南米のポトシ(現・ボリビア領)で、日本の銀産出量は2番手につけていたというから、生野銀山からの産出量だけでも世界屈指であったと考えられる。
秀吉は生野銀山を自身の直轄としたが、それを京都・大坂などに運び出す際、護衛の責務を担ったのが秀長の家臣たちだった。言うなれば、生野銀山は「宝の山」そのもの。他の戦国大名からは羨望の的となっていただけに、そこから上がる収益は何としてでも死守する必要があった。
それに対して丹波福知山にはどんな価値があったのか。福知山城は丹波・丹後・但馬を結ぶ水陸交通の要衝にして、京の都まで約60キロの距離に位置していた。当時の福知山城が有していた価値については、戦国時代の政治・軍事史を専門とする柴裕之氏の編著『豊臣秀長 シリーズ・織豊大名の研究14』(戎光祥出版)所収の、織豊政権期を専門とする中京大学名誉教授・播磨良紀氏の論考「羽柴秀長の丹波福知山経営」に詳しい。
