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島崎晋「投資の日本史」
豊臣兄弟「天下統一を見据えた経済政策」

豊臣兄弟は転戦続きでなぜ軍費が続いたのか? 信長亡き後、秀吉・秀長の突出した経済力を生んだ“2つの領国経営” 「宝の山」と「水陸交通の要衝」

秀吉の天下取りを支えた「領国の生産力」と「輸送路の整備」

 播磨氏によれば、当該時期には綿をはじめ、「山陰各国から様々な特産物が福知山に集められていた」。「秀吉がこうした商品生産物を管理・売買することにより、莫大な利益を生み出していたことは想像に難くなく、それを秀吉へ供給する輸送路の整備こそが、秀長に課せられた重要任務だった」と言う。

 それだけに福知山城の城代、福知山の代官には算用に長けた吏僚を当てることが求められ、秀長の眼鏡に叶ったのは、上坂意信という近江出身の人物だった。秀吉が北近江3郡(現・滋賀県北部)を統治した時期かその前夜に臣従した国衆と考えられる。

 のちの豊臣政権下で五奉行に任じられた石田三成と長束正家も近江出身なら、同じく増田長盛にも近江出身説があり、近江商人という言葉が生まれたのも織豊政権期のこと。戦国時代を通じ、琵琶湖水運を有効活用していた実地体験が関係してか、近江には算用に長けた人材を生み出す土壌があったのかもしれない。

 それはともかく、播磨氏は前傾書で、「山崎の戦いの勝利により、一躍天下取りの野望が芽生えた秀吉にとって、この時期一番頼れるのは山城(現・京都府北部)以西の播磨・但馬・丹波という領国の生産力であった。特に柴田勝家との決戦に備えて、領国から近江方面への輸送路を確保することが急務とされた……ゆえに一門筆頭の秀長に但馬・丹波福知山を与え、亀山城(現・京都府亀岡市荒塚町)にも一門の於次秀勝を置いて山陰道筋の整備を推進したのであり、その成功により潤沢な物資の覚悟が、後の賤ヶ岳の勝利に大きく貢献したと思われる」とも主張している。

 おそらく播磨氏の推測は当たっていよう。続く後編記事では、柴田勝家に勝利して信長の後継者の座を固めた後の豊臣兄弟の経済政策について、詳しく解説していく。

▼▼▼後編記事▼▼▼
【もっと読む→】秀吉が弟・秀長を紀伊に転封した納得の事情 秀長は「奈良における商売を一切禁止」する過激政策も断行

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。最新刊に『弱肉強食の世界史が教える 超大国の興亡』(ビジネス社)。日本史上の巨大プロジェクトの舞台裏を危機管理という視点で迫った『危機管理の日本史』(小学館新書)も話題。

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