秀吉は弟・秀長と協力し領国経営に臨んだ(写真:イメージマート)
放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では主君の織田信長を討たれ、自らが後継者となると誓った豊臣秀吉・秀長の兄弟がいよいよ天下取りの道を歩み始める。織田政権を支える大名の一角だった兄弟は、いかにしてその座を手にしたのか。『危機管理の日本史』などの著書がある歴史作家の島崎晋氏が、豊臣政権初期の財政基盤を支えた領国経営について解説する。【前後編の前編】
目次
羽柴小一郎「秀長」への改名が示す織田との決別
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は中盤最大の山場にある。本能寺の変(天正10年=1582年6月2日)で斃れた織田信長(演・小栗旬)の仇討ちを果たし、後継者の座につくのは誰になるのか、ドラマではその過程が描かれてゆく。
遠く中国戦線にあり、毛利軍と対峙中の羽柴秀吉(演・池松壮亮)は決して有利な立場にいたわけではなかった。信長の死を秘したまま毛利軍と和睦を結べたのはよいとして、柴田勝家(演・山口馬木也)ら他のどの有力武将より早く取って返し、なおかつ明智光秀(演・要潤)が畿内全域を掌握する前に戦いを仕掛けなければ勝機も薄まる。
7月19日放送の第28回「急げ!秀吉」と7月26日放送の第29回「天下への道」では小一郎(演・仲野太賀)の知恵と活躍により諸々の困難を乗り越えたように描かれたが、細部はともかく、史実の上での豊臣政権の成立と運営において、小一郎がある時は秀吉の代理、またある時は縁の下の力持ちに徹したことは間違いなかった。
おそらく8月末か9月放送分で、小一郎は名を長秀から秀長に改める。信長の「長」より秀吉の「秀」を優先させるこの挙は、織田の世に決別を告げる決意表明になると断言してよいだろう。
信長の命で手にした「播磨」「但馬」の領国経営が転機に
そもそも、秀吉が信長から播磨(現・兵庫県南西部)への出陣を命じられたのは天正5年(1577年)10月23日のこと。毛利勢による調略が播磨・但馬(現・兵庫県北部)でも活発化したことへの対抗処置だった。
細かな経緯は省くが、天正8年(1580年)に播磨の平定を成し遂げた秀吉は、北に隣接する但馬の平定を秀長に託し、秀長がそれをやり遂げると、秀長を竹田城代として但馬1国と飛び地として与えられた丹波(現・兵庫県東部から京都府中部)福知山(現・京都府福知山市)の統治を一任した。
とはいえ、転戦が続いていた関係上、秀吉・秀長ともに腰を長く据えることは許されず、所領経営の実務を信頼のおける家臣に一任するしかなかった。このような状態は本能寺の変と山崎の戦い、賤ケ岳の戦い(天正11年=1583年)を経て、秀吉が信長の後継者としての立場を確立させた天正13年(1585年)5月、秀吉の手による最初の知行割において、秀長が播磨・但馬2か国を与えられ、居城を姫路城に移してからも変わりなかった。
あまりに転戦が続くと、よく軍費が続いたものと、不思議に思われる読者も少なくないのではないか。無理な徴発や略奪頼みでは、あちこちで一揆や反乱の火の手が上がり、収拾のつかない事態になりかねない。豊臣兄弟は領国の統治に際してどのようなリスクマネジメントを行い、それを回避したのか。
結論から言えば、兄弟が毛利勢との戦いを経て与えられた領国の生産力の高さと、それらを管理・売買し利益を生み出すために必要な人材を北近江統治時代に得ていたことが、大きな理由として挙げられる。
