小林一三が創始した宝塚歌劇団。2016年にはOGによる『シカゴ』アメリカ公演が行なわれた(Getty Images)
古来、芸術にはパトロン(経済的支援者)が必要とされてきた。近代日本でその役割を多く担ったのは、いずれも事業で成功を収めた実業家たちだ。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第18回(後編)は、明治の文明開化で危機に瀕した日本美術の守護者、大正期に活躍した世界的な西洋美術の蒐集家、新たな芸能を作り出した実業家について取り上げる。【第18回・前後編の後編】
目次
日本美術の危機に際して行動した五島慶太、岩崎弥之助
明治政府が発した神仏分離令は廃仏毀釈運動を誘発し、全国各地で寺院の仏像や路傍の地蔵に対する破壊行為が横行した。また、文明開化は日本が近代化の道を歩むに当たり、避けては通れない道筋だったが、それは日本の伝統文化に対する自信喪失につながり、貴重な文化財が二束三文で売られ、海外に大量流出する現象を招いてしまった。
お雇い外国人のアーネスト・フェノロサ(1853〜1908年)が日本の美術界に警鐘を鳴らした影響もあってか、これらの危機に対して、具体的な行動を起こしたのが五島慶太(1882〜1959年)や岩崎弥之助(1851〜1908年)だった。
五島慶太は東急グループの事実上の創業者。鉄道事業に奔走するかたわら、古写経をはじめとする貴重な美術品の蒐集に励み、その成果を社会に還元すべくオープンさせたのが東京都世田谷区上野毛にある五島美術館だった。残念なことに、五島当人はオープンの前年に帰らぬ人となったが、国宝の『源氏物語絵巻』『紫式部日記絵巻』をはじめ、日中の絵画、古写経・古筆・墨跡などの書跡、茶道具、内外の陶磁、古墳からの出土品など、五島美術館はいずれ劣らぬ文化財の宝庫。世界に誇れる芸術の殿堂である。
コレクションの凄さでは岩崎弥之助も負けてはいない。三菱グループを創業した岩崎弥太郎の弟で、同財閥の2代目総帥でもある。漢学者の重野安繹(しげのやすつぐ)を師として学んだ関係上、コレクションの蒐集は古典籍に始まり、それらを収蔵するため自邸内に設けたのが静嘉堂文庫だった。
その後、コレクションの幅は書画、彫刻、漆芸、茶道具、刀剣へと広がり、後継者の小弥太は中国陶磁を系統的に蒐集。静嘉堂文庫は静嘉堂文庫美術館という一般に公開された常設の美術館となり、現在では国宝7件、重要文化財84件を含む、およそ20万冊の古典籍と6500件の東洋古美術品を収蔵するまでになっている。