北条政子や淀殿と並んで「日本3大悪女」の1人に数えられる日野富子。室町幕府8代将軍の正妻として富子が関わった将軍後継問題は、京都を焼け野原にした「応仁の乱」を引き起こした要因の一つとされる。しかし、それは通説に過ぎない。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第7回は、日野富子の「京都復興の立役者」としての顔について解説する。(第7回)
日本の歴史上では女性権力者の絶対数が少ない。将軍の正妻の中で、教科書に名前が載るレベルなのは北条政子(1157-1225年)と日野富子(1440-1496年)の2人くらいだろう。
北条政子は鎌倉幕府を開いた源頼朝の正妻にして、2代将軍・頼家と3代将軍・実朝の生母。一方の日野富子は室町幕府の8代将軍・足利義政の正妻にして9代将軍・義尚の生母だが、「尼将軍」の異名で呼ばれ、烈女と称えられることもある政子に対し、ひたすら蓄財に励んだ富子には“私利私欲にまみれた悪女”のレッテルがつきまとう。
近年の歴史研究によれば、それは多分に偏見によるレッテルだと言えるが、根も葉もないわけではない。富子が将軍の妻として行なった政治の中身は、確かに都周辺の庶民から怨まれるのに十分な理由を持った。しかし、その責任は本来、足利義政が負うべきもの。なぜ、日野富子は蓄財に励むだけではなく、歴史の表舞台に立ち、政務を取り仕切ることになったのか。