「抗日勢力の分断」を意図し「アヘン専売化」を実施
台湾総督となった児玉は、当時、政治家としては陸軍大臣・内務大臣・文部大臣、軍人としては参謀次長・満州軍総参謀長・参謀次長事務取扱などを兼任する身であった。台湾問題への取り組みにおいて自身は汚れ役(後述)を一手に引き受けるに留め、それ以外は後藤に丸投げした形に近かったようだ。後藤は事実上の台湾総督と言えるかもしれない。
晴れて台湾総督府民政局長となった後藤がまずやるべきは、台湾の慣習を徹底的に調査することだった。後藤は京都帝国大学(現在の京都大学)から民法と行政法の専門家を招いて「台湾旧慣調査事業」を進めるとともに、極めて複雑な土地所有のあり方を解明するため、土地調査事業も進めさせた。
さらに後藤は、抗日ゲリラの活動を鎮静化させるには分断が得策であるとして、アヘンを専売化して認定者のみに購入を認める「漸禁政策」を採用した。なぜアヘンの「漸禁」が抗日ゲリラの分断になるのか。
アヘンは中毒性の高い麻薬の一種だが、中・上流階級を構成する台湾の地主層には欠かせない嗜好品となっていた。一方で、日本本国ではアヘン厳禁論が大勢を占めていたこともあり、台湾で「日本人はアヘンを厳禁する」との風聞も流れた。これにより、小作人や貧農など下層の住民より、むしろ地主層が恐慌を来し、断固受け入れられないとして抗日ゲリラ闘争を牽引した。
そこで後藤のアヘン漸禁政策だ。抗日勢力の分断を意図しただけあって、単に規制を緩めるものにはならなかった。アヘンを総督府の専売とし、各地に特許薬舗を設置。医師の診断によりアヘン中毒者と認定された者に通帳を与え、通帳保持者にのみ薬用としてアヘン購入を認めるという形が取られた。富裕層には賄賂次第で通帳保持者になりうる道を残したのである。なおかつアヘンに高率の税金をかけ、その収入をアヘン問題に代表される台湾の衛生事情の改善費用に充てるなど、後藤のやることにはそつがなかった。
後藤のアヘン政策は抗日勢力の分断とゲリラ闘争の鎮静化に大きく貢献した。児玉・後藤コンビが実施した台湾の安定化は「アメとムチ」の併用からなり、汚れ役はもっぱら児玉が受け持った。その最たる例は、投降に応じたゲリラに対する騙し討ちだった。
児玉には再び背く者を識別する能力が備わっていたのか、過去を不問に付し、積極的に生業や資金を与える場合もあれば、帰順勧告に応じて出頭してきたゲリラを式典の名をかりて一つの場所に集め、一斉射撃で皆殺しにする場合もあった。