後藤・児玉コンビによる「アメとムチ」政策で台湾の治安が健全化した
一方の後藤はアヘン政策以外にも、「治安維持に協力した者には塩や煙草の販売特権を与える」「2年の猶予期間を設け、清国との往来や清国への移住、国籍選択の自由を認める」など、利益誘導と並び、寛大な姿勢を見せることを怠らなかった。
そうした児玉・後藤コンビのアメとムチ政策により、台湾の治安はみるみる健全化に向かう。後藤はそれを待って、上下水道や道路・鉄道・港湾など交通網の整備など、産業育成の大前提となるインフラ整備に精力を注いだ。
それらは慈善事業ではなく、南進政策の第一歩と呼ぶに値する事業だった。近代的な灌漑設備の導入をはじめ、現地住民の利益に直結する部分も多かったため、中長期的な親日感情を醸成することにもつながった。
北岡前掲書によれば、後藤の成功は後藤が言うところの「生物学の原理」に従ったからだという。「生物学の原理」とは「自治・慣習の尊重」を指す。日本を「文明」、台湾を「野蛮」とし、相手の実情を何も知らず、日本の制度を無闇に押し付けようとするのは「文明」の驕り、虐政にほかならないというのが後藤の考えだった。当時の日本人の中では特異な発想だが、それに理解を示し、全面的にバックアップした児玉もまた卓見の持ち主と言えるだろう。
日露戦争後の明治39年(1906年)11月、後藤は新たに設立された南満州鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に任じられたために台湾を離れ、日本の租借地となった遼東半島の関東州に赴任した。同41年7月には第二次桂太郎内閣の逓信大臣、同年12月に鉄道員総裁に任じられるが、その都度、満鉄の監督権も移管されたため、後藤が満鉄の最高指導者であることには変りなかった。だが、ここでは満鉄における後藤の働きは割愛する。
後藤が台湾を離れた後も、台湾総督府はしばらく後藤の政策を継承していたが、その支配が台湾全島の隅々に及ぶに至り、徐々に政策の変更を開始した。自治と現地の慣習を尊重する姿勢を後退させ、日本本土と同じ法の適用を広め出したのである。