元リクを中心に100人の首長の輩出を目指す「かもめ地域創生研究所」の代表理事も務める竹原啓二氏
常識にとらわれない人事と、圧倒的なスピード感。1988年、リクルートは創業者の江副浩正氏が遺した強烈な組織風土を武器に、一つの黄金期を迎えようとしていた。
しかしその栄華の折、組織は最大の試練「リクルート事件」を迎えることになる。後編では、事件勃発時に総務部長として事態収拾にあたった竹原啓二氏が、逆境からの奇跡の成長を支えた「社員皆経営者」の仕組みを明かす。さらに、リクルートの遺伝子を受け継ぐ者たちが挑む「100人の首長輩出」プロジェクトなど、日本の景色を変える新たな挑戦の全貌を語り尽くす。『起業の天才!――江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(新潮文庫)の著者でジャーナリストの大西康之氏が話を聞いた。【インタビュー・後編】
人事発令が毎週される
――江副さんが会長に、位田尚隆さんが社長となる人事を受けての会長・社長就任パーティーから3か月後、リクルート事件が勃発。1年間という長い期間、リクルート事件の報道は続き、結局、江副さんは逮捕され、13年間という長い裁判を経て有罪になります。会社も世間から激しいバッシングを受けました。しかしリクルートは荒波を乗り越え、2014年に株式を上場。現在は株式時価総額が15兆円を超え、日本15位の優良企業になっています。創業者を失っても会社が成長を続けられた理由は、どこにあると考えますか。
竹原:まず第一に、人材採用と人を育てる組織風土に対する江副さんのとんでもない熱量が、強烈な遺伝子となって根付いていたことが大きいと思います。さらに、凄まじいエネルギーを注いで採用した社員に、社員持株制度で株を持たせました。創業者本人の持ち株比率が31%だった時、社員持ち株会は39%でした。オーナーと、その会社で働く人の壁を壊したのです。また、当時は「税引き後利益の40%をボーナスで社員に還元する」という大変透明性の高いルールもありました。
私が入社する4年ほど前、リクルートでも大規模な労使対立が起こり、プロの活動家が社内に入り込んで経営を揺さぶりました。そうした経験を経て、たどり着いたのは「オーナー」と「使用人」の関係を「社員皆経営者」に変えることだったのではないでしょうか。社員に株を持たせてオーナーにし、会社が潤えば配当で社員も潤う形を作った。江副さんは「資本家がいて労働者がいて」というのではなく、「新しい資本主義の形」を模索していたのだと思います。
そこから「Ring(全社員を対象にした新規事業提案制度)」や「ステップ休暇制度(3年勤務で1ヶ月の休暇)」などが制度化されていきました。
――リクルートの社員は昔も今も、入社直後から仕事を任されてどんどん成果を出している感じがあります。どう育てると、ああなるのですか。
竹原:ひとつ目のポイントは、入社2、3か月の新入社員やアルバイトの人たちが、すぐに仕事ができるように仕事を分かりやすく設計してある点です。頑張れば、すぐに成果が出る。成果が出ると褒められる。やりがいを感じる。という成長意欲のサイクルが回るように工夫していたのだと思います。
人事で経営の意思を強烈に表現する時もありました。例えば、1985年7月に設立されたI&N(情報ネットワーク)事業部の立ち上げメンバーは、事業スタートのキックオフで、「会社が全部買い取るから、今日中に夏休みの予定を全部キャンセルしてくれ」と言われました。明日から休日返上で、この事業の成功に向けて頑張って欲しいとのメッセージです。
そこから毎週、人事発令がなされました。毎週ですよ。全事業部からエース級の人材をI&Nに異動させるのです。現場にすれば「あいつも呼ばれた」「今度はあいつも」となり、全社が情報ネットワーク事業の方を向くようになりました。あの時、リクルートは1500人くらいの会社になっていたと思いますが、その組織をギュッと一つの方向に動かす迫力は凄かった。
全事業部から人材を引き抜いたら既存の事業がガタガタになりそうなものですが、そうはならない。引き抜かれた事業部も歯をくいしばって、I&Nに負けるか、って感じで頑張るという状況でした。
