1585年、秀長は大和・和泉・紀伊3か国の領主として大和郡山に入った(写真は復元された郡山城多聞櫓と追手門。時事通信フォト)
話題書『危機管理の日本史』で、日本の歴史をリスクマネジメントの観点から解き明かした歴史作家の島崎晋氏が、放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれていく豊臣政権初期の財政基盤の構築を通して、秀吉・秀長兄弟が手がけた天下統一のための経済政策を検証する。信長の後継者の座を固めた後の豊臣兄弟は、どう動いたのか──。【前後編の後編】
秀長を「木材資源」豊富な紀伊に転封させたわけ
ドラマの進行より先走るが、賤ヶ岳の戦いに勝利し、信長の後継者の座を確かなものとした秀吉は、天正13年(1585年)5月、秀長を攻略したばかりの和泉(現・大阪府南西部)・紀伊(現・和歌山県全域と奈良県および三重県南部の一部)に転封させた。
和泉は当時の日本で最大の国際貿易都市であった堺の後背地で、紀伊は大和(現・奈良県)と並び、木材資源の豊富なところ。
天下統一がなれば、権力の象徴として、信長の安土城をも上まわる城をいくつも築く腹積もりで、朝廷と良好な関係を構築するために宮城の修復や寺社の再建にも積極的に取り組むつもりでいたから、遠からず必ず建設ラッシュが到来する。
そのためには早い段階から乱伐を避け、木材資源の管理を徹底する必要がある。秀吉が秀長に紀伊、四国討伐を終えたのちには大和と伊賀(現・三重県西部)の一部を任せた背因には、京坂の守り手としての役割に加え、このような経済的な事情も関係していたのだった。
「検地」は天下統一以前から実施されていた
豊臣政権初期の経済政策と言えば、検地も見落とすわけにはいかない。秀吉による検地は天下統一以前から開始されており、播磨と但馬ではすでに天正8年(1580年)夏に実施されていたことが、当時の発給文書から確認できる。
検地自体は多くの戦国大名が実施していたが、どれも領主や村落の自己申告に拠り、枡の大きさもバラバラであったことから、およそ正確とも公正とも言い難かった。
それに対して豊臣政権が実施した検地は代官の配下たちが直接測定と換算にあたり、枡にしても同じ型、同じ大きさのものが使用され、その他の度量衡は測定の仕方についても全国一律の基準が定められたことから、不正や情実の入り込む余地はなく、日本史上初めて、相応の石高が算出された。
一連の経済政策を通じ、豊臣政権は確固たる経済基盤を築き、天下統一に向けて隙のない態勢を整えていった。そして、新体制への移行に際し、秀吉の手足として最も重要な役割を果たしたのは石田三成に代表される吏僚たちで、彼らが前線で血と汗を流す武将たちと同等か、時にはそれ以上に重用されたのも理由のないことではなかった。
