サンフランシスコで入国検査を受ける日本人移民(1931年撮影、GRANGER/時事通信フォト)
外国人人口や訪日外国人旅行客の急増に伴い、地方行政においても「外国人政策」が急務となるなか、近著『危機管理の日本史』で、リスクマネジメントの観点から日本史を解き明かした歴史作家の島崎晋氏は、日本が直面する近い将来を考えるうえで「移民国家アメリカの歴史を知っておくことは重要だ」と指摘する。19世紀末、アメリカで中国人移民が禁止された後の穴埋めとして本格化した日本人移民は、その後どのような道を辿ったのか──。島崎氏がレポートする。【前後編の後編。前編から読む】
日本人移民を直撃した「黄禍論」と「排日機運」
貴堂嘉之著『移民国家アメリカの歴史』(岩波新書)によると、日本からアメリカ本土に渡った日本人移民は19世紀の最後の10年間だけで2万7440人、その後の7年間にも5万2457人、ハワイからの転航者も3万8000人を数えたという。だが、いかんせん時期が悪かった。
アジア人を敵視する黄禍論(19世紀末から20世紀初頭に欧米で流布した、黄色人種が白人社会の優位性を脅かし災禍をもたらすという人種差別的言説)は日本人を例外とせず、日露戦争(1904〜1905年)で大方の予想を裏切り、日本が勝利すると、またも(19世紀末に中国人排斥運動が起きた)サンフランシスコを発火点として、排日の気運が全米に拡散を始めた。
その後、事態の穏便かつ早期収拾という点で日米両政府の利害が一致。1907年11月から翌年2月にかけての話し合いの結果、日本政府が自国民にアメリカ本土行きの旅券を発給しない自主規制を課する形、いわゆる「日米紳士協定」が交わされたことで、排日運動はいったん下火となった。
けれども、独身男性が多かった日本人移民がアメリカで家庭を築くために用いていた、ある結婚の方法などがネックとなった。当時、写真の交換だけで結婚相手を決め、日本から花嫁を呼び寄せる、通称「写真花嫁」と呼ばれた方式で渡米した日本人女性は約2万人とされるが、恋愛結婚が当たり前となったアメリカ人の目には、非文明的な風習としか映らなかったという。
これに加え、日露戦争の勝利を機に本格的な大陸進出を始めた日本が中国市場を独占しようとしているのではとの疑念や、アメリカは日本より中国との関係を重んじるべきではないかとの世論もあわさり、排日の空気はすぐに再燃した。
