日清戦争後の「台湾植民地化」を主張した大蔵官僚・添田壽一
日本の海外進出に関しては、北進論と南進論の2つの潮流があり、北進論ではまず手に入れるべき対象が朝鮮半島であったのに対し、南進論では台湾がそれだった。台湾出兵後はしばらく朝鮮問題にかかりきりとなったが、朝鮮の帰属を巡り、清国との対立が高じる状況下でも、日本政府内には南進論を盛り上げるべく、地道な努力を重ねる者が少なからず存在した。
台湾史・華僑史を専門とする故・戴國煇(立教大学名誉教授)は著書『台湾 人間・歴史・心性』(岩波新書)の中で、その人物として、大蔵省の高官にして金融・経済論壇のホープと目されていた添田壽一(1864~1929年)の名を挙げている。
同書によれば、日清戦争(1894~1895年)における日本の勝利が確定しながら、まだ講和が成立していない段階で、添田は「日清戦争経済の観察」という意見書を上申。その中の「台湾及び澎湖列島の略取」という項目で、〈台湾は樟脳、砂糖、米、甘藷、茶、藍草、石炭、硫黄などの資源が豊富であること、また台湾は東洋沿岸および南洋諸島に貿易を拡張し航路を延長するための要石であり、日本人の植民を行なうべきこと〉と説いていた。
添田らの地道な努力もあって、日清戦争後の講和会議では台湾の割譲についても話し合われ、明治28年(1895年)4月17日に締結された下関条約には日本への台湾の割譲も盛り込まれた。
清国全権・李鴻章は「日本に台湾統治はできない」と忠告
講和条約締結に向けた話し合いの最中、清国側全権大臣の李鴻章(1823~1901年)は、台湾近海は波が荒く船舶の接舷や荷物の上げ下ろしが難しいこと、先住民ばかりか本土から移住した漢人も強暴にして精悍なため治安の維持がままならないこと、マラリアなどの風土病が蔓延していること、アヘンの吸引が広く定着していることなど数多くの理由を挙げ、割譲リストから台湾を外すのが賢明と力説した。それに対し、日本側全権の伊藤博文(1841~1909年)は一切耳を課さず、日本の責任ですべて克服してみせると大見栄を切った。
本心から台湾を失いたくなかったのか、日本が固執するようあえて挑発したのか、李鴻章の真意は不明だが、その忠告通り、日本による台湾統治は住民のゲリラ戦による抵抗が激しく、序盤から躓いた。