台湾の植民地化1年目に日本の総予算の33%を投入した
日本は台湾の植民地化にあたり台湾総督府という統治機関を設けた。その長である台湾総督には、初代は海軍大将の樺山資紀、2代目は陸軍第三師団長の桂太郎、3代目は陸軍中将の乃木希典と、代々高級武官を配置した。しかし、武力を前面に押し出したやり方では台湾全体を覆う抗日気運をかき消すどころか、減退させることさえできず、神出鬼没な抗日ゲリラに翻弄されるばかり。軍事費は膨らむ一方で、台湾史を専門とする呉密察(元台湾大学教授・元故宮博物院院長)の共著『世界歴史大系 中国史5』(山川出版社)によると、台湾経営に投じられた額は1895年だけで日本の総予算の33%にも及んだ。
翌年は11%と大きく減少したが、それでも想定外の持ち出しであることに変わらない。当時、帝国議会では台湾を日本の年間総予算を上まわる1億円という金額でフランスに売却する案が本気で議論された。
フランスはインドシナ半島を植民地化し、そこから陸続きの広東・広西・雲南の3省を勢力圏としていたから、売却先として最も妥当だったと言えるが、それでは日本の面目が失われる。国際世論には、「未熟な日本に植民地経営はまだ無理」と嘲笑する向きがあり、もし台湾を売却すれば、「それ見たことか」と、世界中から嘲笑の対象になるのは目に見えていた。
日本の力だけで何とかする方法はないものか。明治31年(1898年)、4代目台湾総督に任命された陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎(1852~1906年)がその大役を託したのが、本土の衛生局長として検疫事業で実績を重ね、台湾総統府の衛生顧問も兼任していた後藤新平(1857~1929年)だった。
続く後編記事では、児玉・後藤コンビによって大きな転機を迎えた台湾統治の詳細を見ていく。
■後編記事:明治期の「台湾統治」の舵取りを担った児玉源太郎・後藤新平の「アメとムチ」政策 抗日ゲリラを沈静化させるために「アヘン専売化」を採用した意味
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。